| 2007年1月1日(月) 天気:はれからくもり |
| 暇なので練習室で楽器弾いてるわけですが、ヒンデミットの11-5とかに挑戦してるといらいらしてきます。難しくて弾けないからじゃなくて(それはいつものこと)、こんないい曲が世の中にはい〜〜〜っぱいあるのに何でみんな聞かないのよ、と腹が立ってくるからです。11-5は途中で放り投げていた曲だったのですが、休み中に最後まで開通させてみるつもり。曲作りはそれから。 |
| 2007年1月2日(火) 天気:くもり |
| 兄の家族がきて一族勢揃い。兄嫁のほうの実家がちょっとおおごとになっているので、夕飯食べてちょっと騒いだくらいで戻ってゆきます。夜は母が急ぎでプリントを作りたいけどワープロが壊れてしまったというのでワードでちょちょっと。データのインポートなんかしません。元原稿を眺めながらタッチタイプであっという間に仕上げてあげます。 11-5を弄り回しているうちに曲の語り口がだんだん体に入ってきたきがします。どんな曲にも作曲者の語り口というのがあって、それを掴むと音楽面にとどまらず技術面でも、やりやすくなるものです。逆にそれがわからないとただ音符を音にしてるだけになってしまうし、自分から伝える音楽にできません。長いこと会ってなかった人に久しぶりに会って話をしているうちにその人の雰囲気がだんだんに思い出されてきたりするものですが、音楽でも弾いているうちにある作曲者に固有な雰囲気が伝わってくるものです※。このころのヒンデミットってこんな人だったんだ、会ったこともないのにそんなこと考えながら練習するんです。 ※ バロックの曲は時代が遠すぎて語り口がわかりにくいんで、やりにくいです(大バッハ除く)。近現代の音楽が「わかる」のはそういうところがとっつきやすいからです。 |
| 2007年1月3日(水) 天気:たかぐもり |
| 父がアメリカ留学時に持ってったというカメラを発掘してみました。シナノカメラのピジョン type IIIというレンズシャッター機です。中は結構かびてるし巻き上げレバーが固着してるんですが、外観は茶色の速写ケースに入れられて綺麗です。むき出しで鞄に入れっぱなしで傷だらけにしてる自分とは大違い。その後使ってたコニカのAuto35と、戦時中に買ったというベビーパールも出てきました。厚さがない分、フィルムサイズはでかいのに写るんですよりずっとコンパクトです。レンズは六桜社の銘が入ってる奴。シャッターも生きているようだし、何だかこれが一番状態がよさそうに思えました。大昔のカメラの造りは後年のものとまた違いますよね。 |
| 2007年1月4日(木) 天気:はれ |
| 職場のウェブのデザインを新年対応にしたりしているうちに一日が過ぎていきます。 ヒンデミットの11-5はスケルツォまではなんとか通る状態ですが、バッハの無伴奏チェロ組曲弾いてるときみたいに目ぇつぶってて大丈夫になるのかしら(暗譜できるかってことです)。フィナーレのパッサカリアはまだ転ぶ(指がもつれるという意味ではなくて、もちょっと広いニュアンスでお願いします。あなたがたったひとりで楽器を弾いたことあるならわかるはず)と立て直し不可能な部分が多いです。8ページ目のすごいかっこいいとこがやりたくて仕方ないんですが、一瞬でも気を緩めると転ぶんですよ。音楽的には例えばバッハのシャコンヌ(もち無伴奏ヴァイオリンのための、ね)よりはずっと軽い、初期ヒンデミット節っていうとわかりやすいかな、そういう音楽ですが、この曲にはもう一つ作曲上のテーマがあって、それはヴィオラがどこまで「イケてるか」を探ろうというものです。ヒンデミットの無伴奏(ヒンデミットといえばまずヴィオラなので、彼の無伴奏と書いたら無条件でヴィオラのための無伴奏曲を意味するべきです)はもちろんみんなそうなんですが、11-5ではまず「ヴァイオリンに肉薄してみる」ことがひとつの目的でした。この楽章ではヴァイオリン曲の最高峰であるシャコンヌに肉薄しようとしたわけですね。ちなみにスケルツォはレーガーの無伴奏ヴィオラ組曲、アダジオは印象派(音楽の)の濃い影響のもとに書かれているとされています。まあそんなわけで、ヴァイオリンでシャコンヌを弾くくらいには難しいんです。バッハならみんな弾いてるのでああ、こんなもんかってわかるんですが、ヴィオラだとそうはいかないし、それが数日前に「腹が立つ」とか書いたことの遠因です。もっと一般的な曲ならもちょっとでも気楽に弾けるのに、もし失敗してもあああそこは難しいからね、と思ってくれるのに、とか考えます。自分が下手糞なことの言い訳にしかならないのだけれど。ほんとうはヴァイオリンでシャコンヌ弾く人も同じ重圧を感じているのかもしれないけど。でも、ヴァイオリンよりずっとマイナーな楽器で同じレベルのことやろうというのは、ヴァイオリン弾くよりずっと自由で、そしてずっと孤独な行為なんでしょう。つうかそうでも思わないと大変すぎて弾けん。 |
| 2007年1月5日(金) 天気:はれ |
| で、昨日みたいに難曲探検隊してるとさらわないといけない曲をさらわないまんまなわけです。としおけの曲は指揮者から休み中に一度でもさらっとけ命令が出てるんですが、次の練習で「全然さらいませんでした」って言ったら怒られるかしら。 あまおけの弦のトップってのはできれば最初の合奏までに「自分のパートがいちおう弾けて曲の何がどうなってるか自分なりにわかってる」レベルに達しているべきです。これは管の面子なら全員が当然できていることです。弦は音符の数が管の比じゃないんでハンデがあるんですが、言い換えれば「他人より上手い人」ならそのハンデは乗り越えられるだろうと期待されていますし、期待したいんです。ぷろおけだと練習回数が少ないぶんみんな上手だし、アマよりはるかに歩留まりが厳しいレベルで誰かがそれをクリアしてるからあまり問題になりませんが、あまおけだと「誰か、曲をわかってる人」という模範がいるかいないかで仕上がりも違うし弾いてて音楽的に楽しめるかどうかも違うし、つまりオケのレベルが違うんです(ぷろおけの奏者にはこの「曲をわかってる人」として指揮者を使う能力があります。もちろんトップも使わないといかんと思いますが、トップはもちろん指揮者を使いまくっているはずです)。あまおけのトップが難しいのは周りに「自分は曲をわかってるのだ」「だからこの曲はこうなんだ」と伝えなければならないからです。レコ勉だけして適当に勝手に弾く人も多いし、何もかもおんぶにだっこのつもりで後ろのほうでぼさっと座ってるだけの人もいます。トップはそんな人を説得して弾かせるだけの技術とか知識とか熱意とかを持っていて、それを伝えないといけません。おけと関係ない難しい曲をさらってみるというのはそういうモチベーションを維持するために多かれ少なかれ必要な作業なんですが、そういうところを指揮者は評価してくれるかな。実に孤独な作業です。 |
| 2007年1月6日(土) 天気:わるい |
| 魚類の差別的和名の改称について(答申)。ニュースになってた奴です。将来、「お前サバみばいな顔だな」「イワシ口」「サンマ体型」なんて悪口が流行ったら日本魚類学会はサバやイワシやサンマを改名しなければならないことになってしまうんで、こういう議論は本質的に不毛なのです。極論ですって。不感性を劣等感と感じている女性がマグロ丼という単語を見てどう思うか考えてください。つまり、どうしようもないんです。日本魚類学会が何か対策を考えてお墨付きを与えてそれがニュースになったところで、このどうしようもなさはなんとかなるんですかね。「メクラ」「チビ」「イザリ」をどんなに改称して言い換えてみたところで差別が解消できるものですかね。改称すれば解消できるなんてオヤジギャグ垂れればカイショウできると思うなよ。 |
| 2007年1月7日(日) 天気:はれ |
| 下馬で再来週の練習です。 |
| 2007年1月8日(月) 天気:はれ |
| そばで駅伝やってるおかげでバスが使えません。寒いので自転車で出るのも億劫です。 昔々の写真で日記を水増ししてみるてすと。 ![]() 1986年8月 稚内 上り急行天北(コニカC35 HR100) ![]() 同日 美深 天北同士の交換(データ同じ) ネガの汚れを取りきれてないです。 |
| 2007年1月9日(火) 天気:はれ |
| ブラームスの交響曲はたとえば東京近郊区間を乗り歩くのに似ている。そう自分が勝手に思っているだけだ。つまり自分にとって、そういう曲だ。もうどのナンバーも何度も色々なところでやってきたし、どの曲のスコアももう何度も見返して手垢がつき色々書いてあったりするし、どの曲もトップとして弓をつけたことがあるしそれぞれの曲のすべての楽章に自分が抱いた大好きなイメージがたしかに染みついている。「気心が知れた」という言葉がふさわしい曲たちだ。またブラームスかよという倦怠感ととても思い出せないほどの沢山の記憶と。それはだから例えばベートーヴェンの交響曲たちとは違う。一度弾くごとに心が鷲掴みになり翻弄されてどうしていいかわからなくなるような、ブラームスの交響曲はそんな音楽じゃない。部分部分で時おり新しい発見はあるにせよ、その底にいつもああ、こういう音楽なのだ、という思いをただ、深くしてゆく流れがあって、だからブラームスの交響曲を弾くのは譜面の上を走りながら見知った風景の中に小さな変化を見出してゆくような作業だ。どんな指揮者でどんな解釈であと何百回やっても多分同じように感じ、同じように考えるだろう。自分が生まれ育った、何の変哲もなくただゆっくり変化してゆくだけにすぎない流山の街に似ている、そんな四曲からなるふるさとたちなのだと思う。その中に新たな何かを見出すのはだから、自分の中に新しく何かを見出す行為と等値だ。 音楽が自分をどこかへ連れていってくれる何かだとすれば、ブラームスの交響曲は家に帰るために最後に乗る列車のようなものだ。見慣れた風景がどこか違って見える、ちょうどこの曲たちを知った高校の頃になけなしの金をはたいて周遊券を買ってあちこち乗り回して帰ってきて最後の、柏駅からの東武線の電車の汚れた窓から見た風景のようにありふれて、またこの風景を見ながら毎日通わないといけないのかと考えさせる、そんな自分はほんとうは少しづつ変わっていっていった、それと同じ、見慣れてすっかり手垢にまみれたパート譜の音符たち。そこに何か新しい要素を見出して、自分は変わりつづけていられた、と安心する。全く変わりなくこの音符たちを弾くことができるようになったら、もう自分はそのままでいいのかな、とも思う。いつか、そうやって立ち止まる日が、そこから先に歩んでゆくことがない日が来ることがあるのだろうか、と少しだけ考えながら。だから、死ぬまで弾きつづけることを定められた、そんな曲たちということだろうか。 |
| 2007年1月10日(水) 天気:はれ |
| 前任者が残していったマクロを弄る一日です。 強い!インド式教育 数学重視、IT立国支える。IT立国になる以前からインドの数学は強いんですけど。大学時代にTata Lecturesシリーズでしごかれた人間は何をいまさら、と記事を眺めます。「試しに「259259」の二乗の計算の実演を頼むと、紙に少しメモ書きしただけでスラスラと解いてみせた。」だそうですが、どうやって解いたかすぐわかるくらい簡単じゃん…。手元に電卓がなければ俺だってそうする。「どうやら「メソッド」と呼ばれるさまざまな“裏技”に秘密があるらしい。たとえば「17×15」(答えは255)の場合、16の二乗から1を引くだけで済む。」なんてほざいてますがお前さんが感心してるそのメソッドだか裏技だかってのはお前さんが昔数学の授業で習った公式という意味だ。だってそうでしょう。(a+b)(a-b)=a^2-b^2なんていう単純で美しい式を忘れてしまうとは実に情けない。念のために言っておくがこの場合はa=16でb=1だよ。産経の記者さんならこれくらいやったことあるはずだと思うが、思い出せないなんて志が低すぎる。日本の学習指導要領の欠陥だけで片付けられる問題じゃないと思うよ。 最初に九九を覚えてから四則演算を学び、さまざまな公式(メソッド)を駆使してすばやく計算する授業を行う、これは現在の日本で行われている授業で、現在のインドの教育と本質的に同じです。それなのに数学嫌いが蔓延してしまっている最大の原因は「数学はなんだか苦手なものである」という馬鹿げた集団的思い込みです。そんな思い込みがひとを易きに流させているんです。そしてその流れを一番増長させているのはマスコミなんです。ほんとうはインド式だろうと日本式だろうと、この程度の算数や数学は誰だってできるようになるものなんです。ほんとうに、馬鹿でもできることです。でなければ俺みたいな大馬鹿がなんで数学で修士号取れるんだよ。修論書いてる最中にヴィオラに手ぇ出してトップまで任されて発表前日にオケの練習に行ってたような人間が取れるんだぜ。 |
| 2007年1月11日(木) 天気:はれ |
| 冬の夜更けにHP5を大伸ばしして過ごします。軟調部のざらついた雰囲気と対照的な締まったコントラストが面白い、いいフィルムです。イルフォのPシリーズは低感度ではぬめっとした微粒子が特徴的なフィルムですが、高感度はそれに加えてざらざら感がさらにひと味出している気がします。こういうのはレンブラントみたいな優等生な紙で焼いてやるのが正解。 |
| 2007年1月12日(金) 天気:はれ |
| 暇がなくて写真撮りにいけませんです。 |
| 2007年1月13日(土) 天気:はれ |
| 午後じゅう下丸子で来週のための練習なので、蒲田で降りて北陸鉄道か弘南鉄道かという電車に揺られていきます。東急の電車って地方私鉄でお世話になった印象のほうが大きいです。目蒲線もとい多摩川線も、こんな機会でもなければ絶対乗らなかったでしょう。いい天気なのに練習場所が地下なのでなんだかあれです。 前のプルトの人の楽器が自分のとかなりそっくりだったのでびっくり。メーカーは違いましたが、サイズ、横幅、厚さ、板材の風合いやニスの色まで似ていて、なんと製造年まで一緒でした。違いといえば自分の楽器は傷だらけということくらいです。もしかしたら世の中には自分のとそっくりな楽器が3台はあるのかもしれません。 |
| 2007年1月14日(日) 天気:はれ |
| 今日もまる一日下丸子です。痩せそうです。来週土曜が本番ですが、ソワレなのが救われたというところ。 夜は新宿に寄って「パプリカ」を観てきました。夢の描き方が好みだったので満足。実は原作は読んでいないんですが、筒井康隆の夢の描き方が好みだ、ということだと思います。でも、その味を損なうことなく映像化した今敏監督は原作者と夢に対するイメージを共有しているはずです。あと、これは劇場で観るべき映画だと思いました。いや、私はいつだって映画は劇場で観たい人なんですが、殊更にそう感じたものです。 |
| 2007年1月15日(月) 天気:気天 |
| 日本の歌百選にさくらさくらやSMAP。このリストに載った楽曲はだから「クラシック」な楽曲、ということです。ここでクラシック、という単語はふつうの人がモーツァルトやベートーヴェンという単語を聞いて思い浮かべる楽曲と同じようなニュアンスを持っています。よかったね。おめでとう。 でも、私はコンテンポラリな楽曲が好きなんです。それが音楽なんです。今、ここで生きているひとに属する音楽でなければ、いかなる音楽もそれは絶対に音楽ではありません。伊福部昭のアイヌ語の歌曲とか華ちゃんとかなんとかかんとか、そういう音楽「が」、音楽であり、ひとに必要なんです。だから、すべての音楽をコンテンポラリな音楽にすることが、音楽です。モーツァルトやバッハが貼りついている「クラシック音楽」から音楽そのものだけをこの手で乱暴に剥ぎ取って、それをそのままの形で聴衆の耳に押し込みながらただ深い声で何かを宣言すること。それが音楽です。それくらい、覚悟できてるからね。ここで今、言ったからね。 |
| 2007年1月16日(火) 天気:はれ |
| 小野川で高中弦ぱーれんです。久しぶりの林先生。ちょっと出席率が悪かったのですが、毎回トレーナーの先生にはそれなりの謝礼を出していて、それは団費から拠出しているのです。折角払ってるんだからみんな来ようよ。 |
| 2007年1月17日(水) 天気:電気ブラン *r |
| 昨年11月、不二家埼玉工場で期限切れの牛乳が製菓材料として使用されていた問題で、千葉県流山市の家庭でも今年、去年の牛乳が飲用されていたことが発覚した。この家庭では1月2日の朝、昨年の12月29日消費期限の牛乳が冷蔵庫から発見され、早急にコーヒーに入れて飲んでしまう通達がなされたという。この家庭に帰省中だった三男(35)は「普段じじばばばかりでそんなに牛乳は飲まないんだから、安売りしていたからといって買い込んでくるのはよくない」と語り、普段の在庫管理の杜撰さを指摘していた。 |
| 2007年1月18日(木) 天気:はれ |
| のーぱそのファンが駄目になってきました。延々つけっぱなしだったんで、開けて(保証外です)ファン外して(保証外です)みたら溜まりまくったほこりが。掃除しましたがファンがこもった熱で歪んだらしく、時々がりがり言います。ほこりのせいで冷却効率落ちたときに曲がったんでしょうね。そのうち型番調べて替えを買いにいかないと。 同じモデル(同梱ソフトが違うだけ)は妹がロンドンに持ってっています。連絡手段としはネットをフル活用してるんですが(みくしのメッセとか、便利ですよ)、おどりこみたいに埃っぽい部屋で延々つけっぱなしということはないでしょうが、1年保ってほしいものです。 |
| 2007年1月19日(金) 天気:はれ *f |
| 観光土産「竹島ものがたり」の商標登録を特許庁が拒否した問題にかんして、新たに「水晶米」「河童の魚釣模様Tシャツ」などが商標を抹消される可能性があることがわかった。領土問題に関連する地名が含まれる商標の採択が見送られる傾向にあるためで、全農連は「北方領土は稲作限界以北であり、とんでもない話だ」と反発している。 寝台特急「日本海」を運行するJR西日本広報の談話「JR東海さんも特急『東海』を廃止するらしいし、うちもそろそろ止めたほうがいいんじゃないか」 |
| 2007年1月20日(土) 天気:洗濯日和 |
| 今日雨が降っていたのは天気のミスです。 がかまちすとぶらさんの本番です。午後おそくからげねぷろなので昼過ぎから出撃。練習に行くより楽なので不思議な気分です。大田あぷりこで気を使うわりに実はそう長くない本番を終え、打ち上げにいったら実は知り合いの知り合いくらいの人などがうじゃうじゃ発見されました。まさかこんなところでそんな名前を、という一幕も。何だ何だ。 で、帰りに駅まで行ったら京浜東北が行ったばかりで散々待たされ、次の大宮行最終は接続待ちで遅れまくり、最終の深夜バスに3分半で乗り継ぐ羽目になりました。カストリ飲んで無理やり酔っ払いたいんじゃないんだから東京駅構内を走らせないでくれ。画家まちすの難所より心臓に悪いぜ…。 |
| 2007年1月21日(日) 天気:彌縫 |
| 昨日乾かなかった分を乾かしてもらわなければなりません。 どこか出かけたいのに一日ぶったおれていました。ねえ、どっか行こうよ、そう言ってくれるだけでどっか行けたのに。 |
| 2007年1月22日(月) 天気:はれあめ *r |
| 存在しない実験結果など、事実と異なる内容で納豆のダイエット効果を宣伝した番組が放映されていた問題で、千葉県流山市の一般家庭でここ数十年間にわたり、事実と確認されたわけではない効果をうたった食事が提供されていたことが判明した。この家庭では食の細い子供に対し「絶対おいしいから食べなさい」と主張し、一般においしいと確認されたわけではない食事を食べさせていたという。また、「だまされたと思って食べてみなさい」など、自ら虚偽の主張であることを認めながら食事を食べさせることも多かったといい、この家の次男(47)は「何回だまされたかわからない」と話している。一方この家庭の主婦(70)は「あなた、小さいころは栄養のあるものも何一つ食べなかったじゃないの、あんまり食が細いから小児科に連れていって好きなもの聞かれたら『鶏のささ身』って答えて『あんな栄養のないものを…』って笑われてたの、覚えてる?」と反論しており、また次男の妻(47)は「お母さまの作られるハンバーグ、いっつもおいしいって思ってたんですけど、作り方教えていただいたから今度試してみます」との談話を発表した。 この家庭の三男(35)の談話「親父(82)は夕飯の席で『おいしい?』と聞かれたときに『今日食った夕飯の中で一番美味い』といつも答えていたが、この問題に対する親父なりのエスプリだったのかもしれない。自分がへそ曲がりになった遠因は夕食時のこんな会話にあるかもしれないと最近思っている」 |
| 2007年1月23日(火) 天気:はれ |
| 若者にしか聞こえない音 〜聴覚はけっこういい加減?〜。この記事の結論は間違っています。CDとレコードの音質の話に持ってゆき、「うるさ型のオーディオマニアたちを後目にして、(もっとも良く高周波音を聞き分けられるはずの)若者たちを中心としたユーザー層は、音質の差なんかまったく気にせず、CDどころかデジタルデータのネットからのダウンロード販売に移行しようとしている」と書いていますが、そもそも音楽をネットダウンロードするような若者はレコードなんて、ましてやそれをオーディオマニアが愛でるようないい機材で聞いたこともないと思います。この記事の結論は「老いぼれオーディオマニアはレコードや機材なんか耳のいい若者に譲ってしまって、ネットで音楽をダウンロードして聴いていればいい」であるべきです。もっとも、そもそも可聴限界の低下だけからCDとレコードの音質の差異を論じるべきではないのですが。 17khzの音が収録されたwavファイルですが、うちのぱそこんとヘッドフォンでは何かが鳴っているのはわかりました。より低周波のハウリングが聞こえてるのかもしれません。サウンドカードの性能かもしれないし、生音で聞かせてもらわないとよくわからないというところ。 |
| 2007年1月24日(水) 天気:はれ *t |
| セレブとか勝ち組とかいう単語がもう死語になりつつあって、格差社会が既成事実として現実のものとなってこれからは代々うだつの上がらない負け組と一握りのリッチマンというのが日本の社会構造だ、と一般には考えられているように思えますが、それは正しくはありません。より正確には、今の上流社会の人間がこれからぼろぼろ脱落していってあとには一億総貧民窟みたいな状況になります。現在の日本の国際的競争力もへちまもない、中国産の食品を食べて韓国発のブランドを追い求めアメリカに経済援助してもらうみすぼらしい島国が残るだけです。実際にそうなると思います。あと10年くらいかな。どうしてそう思うかというと、今の上流社会、いわゆる勝ち組の連中はたいてい日本のことなんて考えてないからです。負け組のAさんが穴を掘って負け組のBさんが埋め戻して勝ち組のCさんが儲かっているのが現状なのですが、Cさんが使ったお金はそのまま海外に流れていって消えてしまいます。なのでそのうちAさんもBさんも穴を掘ったり埋めたりすらしなくなります(あるいは、できなくなります)から、そうするとCさんが今度は下流社会に落ちてきて穴を掘るのです。それをやっぱりかつて勝ち組だったDさんが埋め戻して、でもその頃には誰も儲ける人がいないのでCさんもDさんも何もしなくなります(できなくなります)。これが来るべき日本の、本当の将来像です。そうなったらみんな国土を切り売りして糊口をしのぐことになるでしょうかね。沖縄を売り北海道を売り竹島を売り沖ノ鳥島を売ろうと思って見たらメンテナンスできないでいるうちにもうなくなってたりして、銀閣寺が中国の富豪の別荘に奈良の大仏がアメリカのベンチャー企業に売られていって、何ひとつ残らない列島のそこかしこにうごめいている茶色いものに目を凝らしてよく見るとみんなホームレスと化した日本人なのです。来年でも一世紀後でもなくて、あと10年で、こうなります。言ったからね。そして、日本がそうならないように努力することは今の時点ですでに、下流社会に転落して望みのない生活に一生甘んじるより、ずっと大変なことなのです。唯一の救いは、そういう努力の前に、勝ち組も負け組もないということです。 |
| 2007年1月25日(木) 天気:なにそれ |
| ついでに、メディアと消費について考えたことを書いておきます。こういうのは従来、メディアミックスで行われる商品展開、といった側面で語られてきました。ビックリマンチョコのシールとかモナー(と入力して変換しようとしたらエモジオ入れてるおかげでえらいことになったが)を勝手に商標登録するとか、メディア(で語られれる内容)と消費が一次でむすびついているレベルの話ですよね。なのでメディアで語られる内容が言語的飽和によって消費されてしまうこともあり得ます。よく「NHKが取り上げたらブームは終わり」なんて言ったりしますが、それは何か(納豆が健康によい、とか)がメディアに飽和して、そんなメディアの渦から遠い場所にあるNHKに到達したときには何かじたいが消費されつくされてしまっていて、例えばもう商売としておいしくない(NHKを見て押取刀でやっと納豆買うような購買集団はもうマーケットたり得ない)、というわけです。でもそういうのではなくて、一段メタなことを考えたのです。直接商品とむすびついていない、メディア内で流通している言語と経済との関係を考えたのです。例えば北朝鮮の核実験とか世田谷一家惨殺とか2ちゃんねる閉鎖とか、これで風が吹くと桶屋がの法則で儲けた、という場合もあるでしょうが、そういう話ではなくて、口コミとか新聞やテレビのニュースとかネットとかで流れるニュースが媒体となって、それにまったく便乗するかたちで商品が宣伝され売れている、ということがあるわけです。 こういうニュースは蜜に例えればいいでしょうか。その蜜を求めて人々がやってくるのですが、ここで人々は蜂とか蝶とかです。商品は花粉です。人々は蜜を吸いたい=ニュースを共有し語りたいのですが、商売する人は受粉したい=ものを買ってほしいのです。そう、花粉は具体的にはCMってことですね。蜜を吸うついでにCMを見て人々は店に行ったりする(めしべに花粉をなすりつける)。何だ、あたりまえじゃん、んなもんモデル化して大騒ぎするなよというところですが、今ここでは蜜のほうに着目したいんです。蜜は吸われて、じきになくなってしまいます。新しく蜜を創出(ニュースを取材したり、Web日記に駄文を並べたり)しないと、花粉も流通しないのです。蜜の中身が何か花粉に影響することはあるでしょうが、別に関係なくてもかまわない。ただ、蜜じたいの質が問題です。具体的には、その時の人々にとって甘い蜜のほうがいいんです。私がいまここでポテチを食べてます、というニュースよりどっかの国の藪大統領が一般教書で泣き言並べた、というニュースのほうがずっと甘いです。前者のほうが甘い、という人は私のストーカー(もしいたら)くらいです。もちろん納豆ダイエットは嘘だったとか、中村獲得できなくて古田監督がっくり、というほうがもっと甘いです。井戸端会議で合衆国の一般教書演説の内容について語る主婦は日本じゃ少なかろう。より正確には、みんながわかりやすいネタが蜜として適しているわけです。毎年8月には戦争がらみのネタが蜜になりますし、2ちゃんねるでは右翼っぽく振舞っていればおいしい蜜が吸えます(という比喩表現は文字通りでない一般的な意味にも、もちろん文字どおりにも読まないでください。あくまでこの文章の文脈で読むこと)。 今、日本で流行っている蜜として、日本そのものがあるように思います。これは他国と比較して日本、といっているので、ぷちナショナリズム、などと言い換えてもいいかもしれません。また安部ちゃんが美しい国とか言ってるよ、とか、また無職ニートが殺人を、とか、今年の初詣は実は靖国に行ったんだよ、というとき人は日本という流行りのニュースを共有し、流通させたつもりになれます。これがまたおどりこが日記でわけのわからないことを、ではそもそもニュースにすらなれません。日本そのものが話題で、つまり蜜であるのだから、人々、つまり蜂や蝶たちによって日本中に花粉が運ばれているのです。さて、ニュースはメディアの上で消費されて、消えていきます。ここで重要なのは、必要なニュースも消費されて消えていってしまう可能性があることです。必要かどうかはともかく、たぶん消費されて、人々がすっかりそのことを忘れてしまうまで、またおいしいニュースには戻ってこれません。かつて左翼的言説を人々が語りつくし、自家中毒を起こし、見限って放棄してしまったのと同じです。1970年代に左翼をメディア的に消費しつくしてしまったのと同じように、今、日本は、メディアの世界において日本を消費しつつあります。消費しつくしたらその時、そもそもニュースの主体であった日本がどうなるか、ということを考えたのです。そして、日本の次に消費すべき何かは、はたしてその時出てくるのでしょうか。その蜜の質如何によっては、花粉の広がる先がどこになるかはわかりません。そんな花粉の流れ、つまりメディアに依存した実際の経済はその時、どんな姿になるのでしょうか。 |
| 2007年1月26日(金) 天気:上士幌町でははれの予定 |
![]() 端っこかぶってるし(テレンプの隙間の漏光っぽい)、色バランスがすごかったのでだいぶいじりました。ネガ傷が残念です。20と半年前の十勝三股駅構内。ほんとうはこの藪くらの下に線路が埋もれてるのです。証拠とおまけ。 このときのフィルムは何コマか最大解像度でスキャンして眺めてるんですが、フィルムの汚れが如何ともしがたい以外はデジカメ糞食らえという以外の気分にさせてくれません(例。フィルムクリーナー漬けにしても汚れが落ちません。しかも傷だらけです)。何、ぼけぼけですって。20%くらいに縮小して見てください。それでカビネ版のプリントと同じくらいのはず。手前の寒地用接触限界標とかが滲んでるのがハレーションなのか収差なのかはちょっとわかりません。すごくいい天気だったもので。20年前は廃止半年前のローカル線っていってもこんな感じでした。それでも鉄ちゃんばっかりだったと思ったものです。 |
| 2007年1月27日(土) 天気:はれ |
| だったのになんか寝ていました。 女性は「産む機械」 柳沢厚労相。「機械」という単語だけが独り歩きしているようなので元の発言を手繰れる記事を探したのですが、なぜ女性を機械に例えなければならないのか、その必然性が柳沢厚労省の発言からは全然感じられません。「出産可能な女性の数は決まっているから、あとは一人頭でがんばってもらうしかない。がんばってもらうための努力を厚労省はできるかぎり支援(以下略)」と言えばよかっただけの話です。 それが説得力のある比喩であれば別に構わないのです。例えば消化器系の話をしているお医者さんが「人間なんて糞の詰まった穴袋、ドーナツと一緒だ」なんて言ったところで誰も問題にしませんよね。これをドーナツに対する侮辱だとか人間に対する侮辱だなんて言ってみせるのはただの言葉狩りです。でも、柳沢厚労相のこの発言は筋が通ってないのです。だから叩かれるのです。こんなわけのわからない演説がまかり通っているというほうが大問題です。 |
| 2007年1月28日(日) 天気:くもり |
| 昨日(というか、書いたのはさっきですが)の日記で書いた柳沢厚労相の女性機械説発言に対して本人がなんか訂正してるみたいですけど、この人はこの人の母語である日本語が、つまり言語能力が、したがって思考能力が不自由なんだな、という印象に変わりはありません。モノの生産に例えたかったのであればまず社会全体をある生産装置と仮定しはっきり定義しなさい。その上で女性を、次世代の生産力を確保するための装置=機械として位置づけなさい。そして、その装置=機械が円滑に作動するために自分が何をなさなければならないか宣言しなさい。それがただちにできなければ政治家として以前にひととして欠格です。女性というひとを孕んで生んで育てて一番愛情を与えられてだから精神的にずっと影響を与えることができる、機械に例えるならこの宇宙でたぶん最もすばらしい、神が作り給うた最高の機械と比喩できる、そのパーツの一つとしての精液が溜まってるスポイトか何かにすぎませんよこの男は。アンコウの生殖腺近くの腹に食いついた雄みたいな、あんな感じ。そんなスポイトだか付属品だかアンコウ鍋の具だか、ゴムをかぶせりゃただの張型に機械呼ばわりされて腹を立てるだけ、馬鹿らしいことです。 |
| 2007年1月29日(月) 天気:はれ |
| 下の兄から数学の問題がきました。甥っ子の大学の試験らしいんだが俺が学部在学中は他人に数学は訊かなかったぞ。ああ、先生には訊いたか。あれーこれどうやるんだっけ俺重積分の計算ってトリッキーなだけでつまんないからあんまやってないのよね教科書教科書あーやっぱ変数変換かいっこだけ分けて残りは一括処理なんてことやってたら朝に。答えを送り返すためにわーどに書くのだけで一苦労です。非数学的操作体系なソフトウェアはたいへんめんどい。\TeX入れとこっかな〜。 数学の話ついでに昨日の補足です。母親とか子供とか性差とかは、そうするとかさせるとか作るとかいうものではないんです。いうなれば社会の公理であって、それをもとに社会が構築されるべきものです。人があっての社会ですから。だから素晴らしいんであって、誰かになれと言われてなるものでも何でもない。そうなれないと素晴らしくないとか政治家が決めるのは自然数がZFに楯突くようなもので、馬鹿げています。政治家や官僚はこの手の履き違えをするので、きっと数学音痴です。だから指差して馬鹿にしてやりましょう。これだから数学音痴は。Wordでショートカットキーも使わずにマウスクリックしまくりながら文書書いてるから数学音痴になるんだよ。 |
| 2007年1月30日(火) 天気:はれ |
| 第三楽章後半の孤独なカデンツァ=モノローグからフィナーレに至るまでひとつも句読点を打つことができないようなオイストラフ/ムラヴィンスキー/レニングラード/ショスタコーヴィチ/op.77の1956年の録音を聞き続けています。「そして」「だから」で紡ぎ続けられた音楽には点もマルも必要ではないことを明らかにするためのこの演奏はひとつの、規範。 ある文章に、それを読み続けるために必要な何分間以上にもわたって読点も句点もなかったら、それをただしく音読することはひとには不可能です。窒息死するだけだものね。でも、それと同等のことが、ヴァイオリンならできるんです。そのことをショスタコは、オイストラフはわかっていたとしか思えません。緻密に書かれたカデンツァの、歯車がかみ合うように冷酷に上昇しつづけるテンポ指示を見れば明らかです。そういう曲です。 |
| 2007年1月31日(水) 天気:転機 |
| フォルテパン400をネガフォートで処理してみましたが、他の現像液使ったのより上がりがいい感じ。まだ伸ばしてないので断言はできませんが。しかし、ほんとにこのままなくなっちゃうんだろうか。 |