[PR]100万円が無料で当たる!:今すぐ応募して現金を当てよう!

々ゞ仝〃(日記)

2004年03月


[先月] [インデックス] [次月] [最近] [トップ]

2004年3月1日(月) 天気:ゆき
何やったか忘れてしまいました。

ナノ世界の小人たち
2004年3月2日(火) 天気:くもり
オフの日なので弓の毛替えと楽譜漁りとに東京へ。目的の楽譜は探せませんでした。銀座のヤマハを覗いた帰りに新橋のガードの道に曲がるとこのそば屋でカツ丼を食べましたが、ちょっとしょっぱかったです。
2004年3月3日(水) 天気:くもり
寒いです。

年度末は忙しいので、まとまって空いている土日が今週末くらいしかありません。で、水戸を朝一で出ると盛岡から大曲行に()げるんですよね。でも、その後どう頑張っても上り「えちご」に繋げないんですね。他方、大館発の上り始発の快速から秋田内陸を通ってその日のうちに戻って来ることができます。というわけでまぁ、どうしようかなぁと。
2004年3月4日(木) 天気:はれ
雪降るとか騒いでたのは何だったんでしょうか。

「植民地下の「親日派」認定し調査 韓国で真相究明特別法 」。そんな打ち上げ花火でまや取る(まやを取る=[熊]おべっかを使う)暇があったらこっちを何とかしたほうがいいと思われ。何かあってからでは遅いのよ。隣国の鉄道マニアとしては端から見ていてハラハラするのはできれば願い下げです。

自宅のADSLが全然繋がらなくなりました。まだ確証は何もありませんがモデムが壊れたっぽいきがします。回線状況を調べてもらっていますが、結果がわかるのが月曜日とのことなのでそれまで実名出してる方のアカウントのメールが読めません。どうしても急ぎでメールを出したい、という方はn-odoriko81@mail.goo.ne.jpまで。
2004年3月5日(金) 天気:寒いぞ
チャイコフスキー作曲のバレエ「白鳥の湖」は作曲者の頭の中ではもともと悲劇で(つまり、メインキャラが二人とも死んで)終わるプロットだった、という事実は、ソビエト時代のこれをハッピーエンドと解釈する演出が世界的に一般化したおかげで一般にはショッキングな、あるいはセンセーショナルなこととして受け止められているようだけれど、きっとみんな全曲を通して聞いたことがないのだろう、と思う。全4幕なんていう喜劇だったとしたらどう考えても一幕は多いぜよという無駄な構造、各幕の最後の曲がいつだって例の不安感に満ちた「たーたらりら」で始まる音楽で締めくくられる(循環主題が効果的に使用されているさまはまるで「トリスタンとイゾルデ」や「カルメン」みたいだ!)構成は悲劇のドラマツルギーに属するものでなくて何であろう。そう、音楽そのものを虚心坦懐に聞き分析する心があれば「イデオロギーなんて飾りです、偉い人にはそれがわからんのです」という心境に至れるだろうと思う。いくら国家の威信や逆にいうと資本主義的ドグマが音楽を侵蝕したところで、音楽それ自体の訴えかける力そのものを誤魔化すことは誰にもできないのだ。

なんて偉そうなことを言いたいんじゃ別にない。「白鳥の湖」を聞いて思い出すのは、この曲の抜粋(いわゆる組曲、ではない)をレコードで散々聞いていた中学生のあの頃、廃止間近の蒲原鉄道村松加茂線に、直前の改正で客車から165系になったばかりの夜行「妙高」から乗り継いで乗りに行った頃のことだ。第一幕の乾杯の踊りの中間部とか、第四幕の白鳥の踊りの主題とか。目をつぶると樺色と茶色のぼろっちい電車が雪でぐちょぐちょの田舎路を冬枯た山の方にゆらゆら走っていくのが確かに見える。非力なモーターが唸りをあげて冬鳥越の坂を越えようとする。春がほんとうにやってくる頃にはもう錆びついた鉄路にその姿はない。そういう音楽なのだ。そして、そういうものだ、として刷りこまれたイメージはもうどうしようもない。自分が白鳥の湖の音楽から今でも確かに受けるそんな印象をだがしかし、誰にどうやって判ってもらえるというのだろう。きっと、胸に仕舞いこんでおくことしかでないものなのだろう。ちょうど、廃止直前の蒲原鉄道の風景を、その車内に確かにいた自分自身を、もう自分の記憶の中にしか見出すことしかできないように。

自分にしか見えないそんなかくうの「白鳥の湖」のステージで、もうすぐ消え去ってしまうあわい鉄路が架空の書き割りのむこうに消えている。その舞台はもはや悲劇でも喜劇でも何でもない。どんな型にはめることもできない、そして、自分だけにしか意味のない。そんな舞台のことを考えたとき、そこにいかなる形にせよ何らかの意味やメッセージを読みとることは「意味がある」のだろうか?
2004年3月6日(土) 天気:雪+風
土浦〜水戸//水戸〜(いわき)〜仙台〜一ノ関〜盛岡〜大曲〜秋田〜大館(泊)。

JR東日本の在来線路線では田沢湖線だけ乗ったことがなかった。どうしてかというと極端に本数が少ないからで、全線の盛岡〜大曲を直通することができる乗り継ぎは下りが一日に4回5列車(一回のみ田沢湖で乗り換え)、上りで2回2列車しかない。いや、本当は東北新幹線から直通の特急であるいわゆる秋田新幹線「こまち」が毎時1本の割合で走っているからこの言い方は正確ではない。上の言い方は田沢湖線を普通列車で、つまり青春18きっぷで乗り通すためには、という表現に言い換えるのが正しい。また、そんなわずかな普通列車は単線区間を最高速度で突っ走ってくる特急群の間を縫って走るためにまず何分停車して交換、2つ先で十何分停車して待避、その先の信号所で何分停車してまた交換、その先の駅で数十分停車して二本交換と一本待避といった調子で、よく時刻表を読んでみると走っている時間と停まっている時間が同じくらいだったりする列車さえある。こういう調子だから田沢湖線は18きっぷを使った旅行プランに組み入れにくい。さて、水戸を朝0513に出る常磐線の下り列車から乗り継いでいくとそんな田沢湖線の普通列車大曲行に接続している。大曲に到着するのは1655、そのまま奥羽本線に乗り継ぐと青森行の最終列車に接続している。この乗り継ぎができるようになったのは一昨年12月の東北新幹線八戸開業にともなうダイヤ改正からのことだ。この水戸発0513の621Mは以前から北海道方面へ行く際によく使っていた列車だが、新幹線開業にともなって第三セクターに転換された区間に足を踏み入れないで青森までは行けるルートができた、ということである。今は北海道まで安くゆっくりと行きたければ第三セクター区間や急行「はまなす」が使える「北海道・東日本パス」を使うのが常道なわけだが、どっちにせよ田沢湖線に乗ったことがない人間にとっては大いに意味のある乗り継ぎである。

市民会館の近所のガストで池波正太郎を読みながら朝まで時間を潰した。以前すかいらーくガーデンズだった頃の調度が残っている店だ。斜め後ろのテーブルには太った中年のビジネスマンがいて携帯で延々と話している。喫煙席の方では若者のグループが盛り上がっている。2時半頃におばさんが一人入ってきて窓際で本を読み始めた。若者グループの幾人かが勘定を済ませ、入口に並べてあるおもちゃのパトカーを弄ってうーうーうーなどと音を立ててはきゃあきゃあ騒ぐ。おばさんが本物と間違えてきょろきょろとあたりを見回す。後ろのビジネスマンは携帯が終ると鞄から古新聞の束を出してがさがさやっている。何者なのだろうか。店内の接客をしているのはホストっぽい風貌の兄ちゃんだ。深夜帯だからあえてそういう人を選んで店に出しているのだろうか。上りの始発が出た頃に店を出た。何となく肌寒い。朝飯を食べるために北口の吉野屋のドアをくぐるとマス席に高校生くらいの女の子が3人突っ伏して熟睡しており、見習いの札をつけた店員がコップか何かを洗っていた。

始発のいわき行はもう何年も前から実質仙台行の列車で、ぐうぐう寝ていても10時過ぎには仙台に到着できることになっている。急行用として製造された455系の3両編成で、今日は以前仙山線で使っていた内装を改善した車両であった。改善といってもシートや化粧板を交換した程度であり、古びた内装は新しくなったかわりに安っぽくなった気がする。座席の高さなどからすれば従来のままの車両の方が窓枠によっかかって寝るには実は具合がいい。それでも田沢湖線内で眠くなるのは嫌なので目をつぶった。気がつくと列車は減速していて、窓の下から沢山の側線が延びていく。高萩だった。まだ暗い車窓を眺めているとぼつぼつと窓を水滴が打つ。県境を越えたあたりから本当に降りはじめてきた。時おり混ざるゆっくりとした大粒の白いものは雪片だろうか。0640いわき着。明るくなりかけた空からみぞれがびちゃびちゃと沈んでくる。ここで列車番号が237Mにかわり、0704の発車までの間に仙台近郊用に455系の車体を2ドア近郊型に乗せ替えた717系が前に3両連結される。平日ならそろそろ通勤通学時間帯だし、休日は仙台に出るのにちょうどいい時間帯の列車だから混むのだ。雪の舞う駅前に出てみるとロータリーに面した古いビルにローソンが入っていたりした。以前はゲーセンか何かではなかっただろうか。無駄に目が冴えてしまって眠れなくなると嫌なので売店でビールを買って車内に戻る。東京方面に出るらしい人たちが改札の前で挨拶をしている。上りのスーパーひたちがそんな人たちを詰め込んで出ていく。こちらもすぐ発車である。加速して後ろへ流れてゆくホームでは次の下りの特急を待つ人が寒そうに凍えている。雨だか雪だかわからなかった天気はしだいに本降りとなり、風景が段々と白く染まってゆく。ビール一缶くらいではもうじっくりとは寝付けない。浜通りの海沿いは冬に雪が積もることは少ないし、雪化粧しつつある風景を見るのは実際始めてのことだ。少しうつらうつらしたとは思ったが、小高の手前で目が覚めた。ここで行き違うはずの特急は5分ほど遅れてきた。ただでさえ白い651系の色彩上のアクセントであるはずの灰色の屋根には雪が張り付き、列車全部がほんとうに真っ白になってしまっている。遅れを引きづったまま原ノ町到着。後から追いかけてくるスーパーひたちの待避のため時刻表上では20分ほど停車である。さっきの上りの遅れが波及してくるだろうと思う。階段を渡って改札脇の駅そば屋に行った。降りた人やこれから乗ろうという人がたかっていて、おばちゃんが中でてんてこ舞いしている。

遅れて出ていった下りの特急はひとつ先の鹿島で上りのいわき行普通列車と交換し、そいつが原ノ町に到着するのと入れ違いに今乗っている列車が発車することになっている。案の定発車時間まぎわになって遅れる旨の放送が入った。ホームの反対側に717系の3連があわてて駆け込んでくるのと同時にこちらもドアが閉まる。寥とした雪景色が車窓に戻ってくる。阿武隈山地から突き出した小さな丘陵を越える。線路敷のスペースが少し広がって、板を打ちつけられたコンクリートの無人の建物が雪に埋もれはじめているのが見える。廃止された信号所の跡だ。黒ずんだ野辺の風景を雪が覆ってゆく。雪に圧された跡もない、ぴんぴんと立った枯草の上に新雪がふかく降り積もってゆくさまはまるでこれから冬が始まるかのようだ。対して車内は仙台に出る人たちでにぎわっている。ここから仙台まではあと70kmあまり、さっき出ていった特急に乗る人ももちろん多かったのだけれど、普通列車と比べてそれほど所要時間は違わない。斜交いのボックスでは家族連れがバッグから何かのチケットを取り出して確認している。ここのボックスにもおばちゃん、と言うよりおばあちゃんに近い感じの二人連れが乗ってきた。仕事の話、友達の誰それが直腸ガンで入院していたらしい、同窓会にも流れなかったから知らなかったわ、という話、パック旅行に行きまくっている話。角館の桜はいいわねえ、なんて会話が耳に入ってくる。隣の席に座っている見知らぬ乗客が今から鈍行を乗り継いで角館を通る予定だとはおそらく思っていまい。角館や弘前の桜の季節まではまだ1ヶ月以上ある。駅のホームでは駅員が除雪をしている。列車のドアが開くと駅舎の軒下にいた乗客たちが雪を蹴って乗り込んでくる。宮城県に入り、海岸砂丘の林とそこを切り開いた小さな住宅地が連続する中を抜け、雪にけぶる阿武隈川の水面を渡って東北本線と合流する。うとうとしかけていたところ隣のおば(あ)ちゃんどもが自宅で買っている猫がいかに可愛いかという話を始めたので目が冴えてしまった。名取の手前で仙台空港線の分岐工事が始まっているのを見、連続立体交差事業が始まっている南仙台からは通路に立ち客が増えてくるようになる。長町を過ぎると線路は左に大きくカーブする。さっきから寄り添ってきていた新幹線の高架が頭上を覆い、列車が輻輳する仙台駅までの最後の一区間はいつも徐行運転だ。今日も信号停車があって少し止まった。8分遅れで仙台到着。ほんらいならもう発車しているはずの松島行にお乗り換えの方はお急ぎ下さい、とスピーカーがわめいている。

改札の脇のコンビニを覗き、トイレに行って次の一ノ関行を待つ。重厚な屋根に覆われたホームに雪が吹き込んでくることはないが寒い。列車は遅れまくっているようで、新幹線からの接続を取ったスーパーひたち(原ノ町で追い抜かされた車両の折り返しだ)が遅れて出てゆき、気仙沼からの快速「南三陸」が遅れて滑りこんでくる。到着した701系が車庫に引き上げてゆく。常磐線の原ノ町行がやっと発車する。その間に本線の普通列車があわただしく行き交う。おかげで一ノ関行きは発車時間が近づいてもホームに入ってこない。やっと放送が入り、少し遅れて701系の6両が青森方から入ってくる。途中小牛田で後ろが切り落としになったと記憶していたが、はたして2x2x2の6両編成、前2両だけが一ノ関行である。ロングシートの車両ではあるが座席を確保してからまたビールを買いに売店に走り、椅子に座って落ち着いたと思ったらすぐ発車になる。仙山線と本線の719系と立て続けにすれ違い、離れてゆく新幹線の高架と入れ替わりに開放的な窓の外に仙台の市街が過ぎてゆく。仙台の駅は繁華街から離れているため、どこまでも住宅地が続いているだけだ。ビールを開けながら寝ようと思うが、やっぱり何となく眠れない。ロングシートの車両の居心地が悪いわけではないし、正月に遠出できなかったぶん興奮しているのだろうかと思う。松島の海も雪霞みにけぶって、青鈍色の水面がただ静まり返っている。愛宕、品井沼、鹿島台、松山町、小牛田。席が埋まるほどだった乗客はどんどん減って、後ろ4両を切り離してワンマン運転になった列車は宮北の丘陵地帯を越えにかかる。田尻、瀬峰、梅ヶ沢、新田。目をつぶっていても風景が思い出せるほど見慣れた車窓だ。伊豆沼のバードサンクチュアリに白鳥が溜まっている。新田の駅にはホームの待合室の外壁に白鳥の飛来数を掲示するボードがかかっているのだが、数字は抜かれていた。白鳥の間にうようよしている黒っぽい小さな鳥は鴨か何かだろうか。石越。くりはら田園鉄道の車両がホームに入っているのが見えた。目を開けると列車は停まっていて、乗客がわらわらと降りはじめている。一ノ関のホームだった。降りて行く乗客の後を追って慌てて降りる。雪は舞っているが薄日が射している。急いで下さい、との放送にせかされてエスカレーターをかけ上る。8分ほど遅れて到着したおかげで、接続の盛岡行も6分ほど発車が遅れた。新幹線八戸開業以前は数分の差で発車していってしまっていた列車だ。

薄日は射したり曇ったりで、うつらうつらしかけては駅に到着するたびにぼんやりと目を開けてみる。列車の走行音が人々のざわめきに変わったのに気がついて目を開けると花巻だった。車内はいっそう混んでいる。次の花巻空港駅が近づくと車窓左側の視界に巨大な宮沢賢治が近づいてくる。花巻空港駅に隣接するJAの肥料関係の背の高い倉庫の壁面いっぱいを使って写真の複写らしい絵姿が描かれているのだ。このポーズはどこかで見たことがある。たしか賢治が“イギリス海岸”と呼んでいた北上川端の路頭を歩いている写真だったと思う。賢治が晩年肥料工場に勤務していたというのと関連があるのかどうか。駅じたいは昔からある古い作りで、現在の駅名に改称される前は二枚橋といった。次は石鳥谷(いしどりや)。同じ岩手県内の、東北本線から第三セクターに転換された区間には小鳥谷という駅があるが、こちらは「こずや」と読む。このようにややこしい駅名というのはあるもので、さっき寝ている間に通り過ぎた北上からわかれる北上線には立川目(たてかわめ)、横川目(よこかわめ)という駅が連続してあるし、小牛田から太平洋側に伸びる石巻線で3駅目は前谷地(まえやち)、反対側、奥羽山脈を越える方の陸羽東線で2つ目が陸前谷地(りくぜん・やち)である。陸前谷地←→前谷地間の定期なんてのは買ってる人がいそうだ。紫波中央という新しい駅がある。盛岡近郊に開発された大規模団地の駅として設置されたものだ。ここの住宅地に熊が迷い込んで騒ぎになったという新聞記事を以前見たことがある。車窓に奥羽山地の前衛の山が近く聳えている。

盛岡には2分ほど遅れて到着した。さて駅弁でも、と見るとホーム上の伯養軒のそばのスタンドがあったあたりは覆いがこさえてあって工事中である。隣のホームにはスタンドそのものはあったが明かりがついていない。ここで食いっぱぐれると次はいつになるかわからないし、折角JR東日本管内在来線の最後の区間に乗り込むのだからと改札を出て弁当の売店を探す。うっかり南口から出てしまうがこちらには何もない。あちこちに工事中の看板がある。小走りに連絡通路を通って売店を見つけて鳥めしを買い、北口から構内に戻る。しかしこちらの跨線橋からは直接田沢湖線のホームに降りることはできない。隣の少し幅広の線路に停まっている乗るはずの電車を横目に今列車から降りたホームを駆け抜けてまた階段を上がる。今日の盛岡駅は何だか冷たい。18きっぷのシーズンなので混雑を予想していたが、701系5000番台の4両編成の車内はがらがらである。ボックス席を一つ占拠して腰を据えるとすぐに発車時間になった。押しボタン開閉式の扉は寒いので乗った人が全部閉めてしまっていたから、ただ発車の音楽に少し遅れてがくん、という動き出す衝撃があるばかりだ。窓の外に雪が斜めに降っている。左にカーブして本線と分かれると新幹線の高架から一筋の線路が分岐して寄り添ってくる。こちらも高架によじ登り、ポイントで合流する。晴れていれば岩手山が綺麗に見えるスポットだろうにと思った。

田沢湖線はが全通したのは昭和41年と、東北地方を横断する鉄道路線としては比較的新しい路線である。盛岡盆地から雫石川沿いに真っ直ぐ西を目指して仙岩峠を越え、林業と田沢湖への玄関口の町生保内(現在の駅名は田沢湖)、古都角館を通って大曲へ抜ける、盛岡と秋田をショートカットする路線であるが、東北新幹線が盛岡まで開業するまでは普通列車のほかに一日2往復の急行が走るだけのローカル線だった。東北新幹線から秋田方面へのメーンルートとして大抜擢され、電化工事にともなってのトンネル改修にともなう長期計画運休を経て特急街道へと変身しなければ超がつくローカル線のままだったと思われる。秋田から東京方面へは北上線経由が距離的には近く、仙台から北上線経由のディーゼル特急が走っていたこともある。秋田新幹線が新在直通方式に決まった際、田沢湖線を経由するか北上線を電化改修するかで綱引きがあったとも聞く。もっともすでに電化されていた路線の軌間を新幹線と同じに広げるほうが実際、現実的だったろう。おかげで田沢湖線は開業以来、二度に渡る大運休をともなう大改修を受けた路線になってしまった。そうやって走り出した東京からの直通特急「こまち」を除くとその実態はさきにも書いたとおり、県境を越える列車が一日4往復(うち上り2本は途中までの接続列車のない区間運転)、盲腸線でない路線でこれほど乗り通しにくい路線はほかに中国山地の寂れはてたローカル線群くらいだろうと思われる。東京から新幹線で秋田までやってくる人たちのほとんどはここに普通列車が走っていることすら気づかないかもしれない。「こまち」の停まらない駅はまわりに民家も少なくまるで信号所のようであり、普通列車とすれ違うことじたいあまりないのだから。いちめんの雪景色を塗って二駅目が乳業で有名な小岩井。ここで上り「こまち」と交換。大曲に着くまでの3時間弱の間にこの列車は下り2本の「こまち」に抜かされ、上り4本の「こまち」と交換し、2本の普通列車とすれ違うことになっている。ホームに降りてみるとじきに向こうから白とピンクと黒のがやってきた。走ってくる風切音はあまりなかったが、通過した後には盛大に雪煙を巻き上げてゆく。巻き上げられた氷の粒が顔に降りかかってきて冷たい。疎林が覆う丘陵の間を縫って少し走っただけで次の雫石である。今度は下りに追い抜かされる。ここは停車する「こまち」もあるためにエレベーターまでついている橋上駅で、エレベーターで上ってみると小さな改札のむこうに土産物屋があった。小止みになっていた雪がまた本降りになってくる。ここまでで乗客もずいぶん少なくなり、今乗っている2両目はあとは高校生っぽい一人だけになった。こう駅ごとに待たされては地元の利用者はたまらないだろう。所要時間にしたら路線バスの方が速そうである。やっと隣の線路をやっぱり白とピンクと黒いのが駆けぬけてゆく。がらがらの車内にがくりという衝撃があり、風景が後ろに流れ始める。

次の春木場で同じ車両のもう一人が降りる。一両まるまる貸し切りである。とりとめのなかった雪景色の中から一本の道路が近づいてくる。おにぎりに「46」の数字が見える。峠に差し掛かったのだ。次の赤渕は区間運転の列車が折り返す駅でもあるが、駅前には国道、それを挟んでさびれた家並みが10軒ばかり連なっているだけだ。降りしきる雪にあたりは見えないが、おそらく谷あいなのだろうと思う。はたして、すぐにトンネルをいくつか越える。雪霞みの中から谷の反対側が迫ってくる。薄情にも国道は車窓のどこかへ消えてしまった。雪に覆われた川底と、対岸の雪に覆われた山肌以外、風景は何もない。そんな中を貸し切り状態の701系はときにトンネルの内壁にモーターをごうごうとこだまさせ、突っ走ってゆく。窓の外を信号機が飛び去ってゆく。そして列車は減速し、スノーシェルターが現れて足下から線路が分岐する。大地沢、防雪壁に守られた無人の信号所だ。架線柱の「おおちざわ」と書かれた標識が雪を積もらせている。ほんの数十分前、さっき行き違った「こまち」が通ったはずの行き違いの線路はもう雪に覆われはじめている。列車は少し停車しただけですぐに動きはじめた。トンネルに入る。ポータルに雪まみれの「仙岩」という文字列がちらりと見えた。峠越えのトンネルである。真っ暗な中、列車はごうごうと加速する。開け放たれた貫通路(701系は編成ユニット間の貫通路が通常の車両より広いので、隣の車両がよく見えるのだ)から前の車両がばたばた揺れているのが見える。トンネル内の路盤の状況があまりよくないのか、たんに安普請車両である701系が無理して走っているだけか。編成中間に入っている運転台を覗き込んでみたら速度計の表示は時速110kmを越えている。ちなみに速度計の目盛りは120km/hまでしかない。一刻も早くこのトンネルを抜けたいのか、少し遅れでもしていたか。そうしてトンネルを抜ける。相変わらずの雪景色だ。眼下には無人の谷底がただ白い。頭上は雪にけぶって見えない。ほかには山肌しか見えない。急斜面に線路がはりついているだけで、他に何もない山奥なのだ。また減速する。分岐器を守るスノーシェードが視界を覆い、列車は停止した。右側でもう一本の線路が雪に沈んでいる。前方の架線柱に「しどない」の文字がある。志度内信号所だ。赤渕〜田沢湖間の18.1kmの無人地帯は間に仙岩峠を挟んでさきの大地沢とここの2つの信号所がある。交換待ちのためしばらく停車します、と放送が入る。

風がごうと吹き付けて軽量車体を揺らす。雪つぶてにあられが混ざっているのだろうか、ぱちぱちと屋根を叩く音がする。煌々と明かりだけがともった無人の列車は人っこ一人いない、容易に来ることすらできない雪の山奥で静止していた。まだ午後3時台だというのに外は薄暗い。雪のために陰影がなくなった山腹とそれを覆う疎林が遮光ガラスの色に染まって静まりかえっているだけだ。山側には雪に埋もれた建物がある。有人の信号所だった頃の信号扱所だろう。煤け荒れ果てたコンクリートの建物は雪覆いに守られた入り口もどこもうず高く雪が積もり、ガラス窓の奥は得体の知れない闇の中だ。「こまち」の乗客が毎日何千人と通過するほんの数メートル隣に、こんな人も知れない廃墟があることをふつう人は意識しないだろう。この列車だって、これから交換する「こまち」の乗客にとっては存在しないも同然だろうと思う。また風が車体を揺らした。放送が入る。行き違い列車が3分ほど遅れています、と車掌の声がただ明るいだけの車内にひびく。そして静寂が戻る。やがて鬱々とした白い世界の向こうから前照灯をつけた白とピンクと黒いのが現れて、ゆっくりと窓の外を過ぎ去っていった。がくん、と連結器が鳴る音がしてこちらも動き始める。これも完全に雪に埋もれた比較的新しそうな継電所の建物を過ぎると線路はスノーシェードの中で単線に戻り、トンネルに入る。しばらく走ると眼下に沿っていた川が雪けぶりの中に遠ざかってゆき、林に入る。ふいに妙なトーチカのようなものが視界に入る。線路沿いに運動公園か何かがあるようで、そこのトイレだった。じき木工所や低い家並みがやっと現れ、すぐに田沢湖に到着した。二面三線で真新しい大きな複合駅舎をともなった、ばかでかい駅のように見える。最後尾の車両に何人かいた観光客らしい乗客すら降りてしまい、残っているのは1両に1人2人になってしまった。

以前は生保内という駅名だったこの駅は田沢湖線全通にともない、田沢湖地区の観光の拠点として改称された。少し遅れて到着したものの15分ほど(定時なら20分停車)あるので改札を出ようとすると、差し出した18きっぷを見て駅員が一瞬あれ、という顔をする。18きっぷでこの駅にやってくる人はほとんどいないのだろう。今しがた降りていった観光客たちも、18きっぷで遠くからちんたらやってきました、という感じではなかった。ガラスと木を多用した新しい駅舎は一見無機的な印象だが、観光・物産案内所や周辺のいろいろな施設の案内所が入っていて、駅の中を見てまわるだけでここ田沢湖町のことがひととおりわかるようになっている。コンコース(もちろん自動券売機が並んでいる)にも、隣の物産館にも少しは人影はあったが、駅に早めに来て次の「こまち」まで時間を潰す人ばかりのようだ。奥の待合スペースは木が多用され、蒲田行進曲にでも出てきそうな幅広の階段がついている。登ってみると建設省玉川工事事務所の展示スペースがある。玉川は田沢湖と外輪山ひとつ隔てたこちらを流れている川で、最上流は強酸性の湯で知られる玉川温泉、そこから間に二つのダム湖をはさんでここ生保内の地をめぐって流れている。玉川の温泉水を含んだPH2〜3ともいわれる強酸性の河水を中和するための施設が現在、玉川温泉のすぐ下流にある。展示にはほかに、さきの仙岩峠のすぐ北側にそびえる活火山秋田駒ヶ岳や、玉川上流に二つある大きなダムにかんする情報が簡潔にまとめられていた。電子メッセージボードがあったので「よく降るねー」といった書き込みを残してみたりする。どちらからいらっしゃいましたか?という選択メニューの「茨城県」の読みが「いばらぎけん」になっていた。書き込み一覧の閲覧を選択して茨城県からの書き込み内容をみていると「いばら“ぎ”じゃない、誰だプログラム組んだ奴は」といった怒りのメッセージを見つけた。

駅名のもととなっている田沢湖は低い山の連なる中にぽっかりと出現するカルデラ湖であり、低い外輪山一つ越えた先にあるので車窓からはどうやっても見えない。今日みたいな天気だと手前の山さえ見えないのだが。田沢湖の水面の海抜は249m、最深部分は海面下173mという世界にも類を見ない「深い」湖だ。大きな流入河川もなく、抜群の透明度を誇っていた。昭和15年、日中戦争さなか、増産につぐ増産のための電力確保のために田沢湖を水源とする発電事業が計画され、水量確保のためにさきの玉川の水を田沢湖に導水することになった。計画を立てた側とて玉川の水が「玉川毒水」と呼ばれるほどのものであったことを知らないわけではなかったと思うが、こぉんなでっけぇ湖に流し込むんだ、薄まるに決まってっぺよと思ったのかどうか。水の循環のほとんどない金魚鉢に硫酸をどぼどぼそそぎ込んだらどうなるか。結果、わずかの間に田沢湖は死の湖と化し、この湖の固有種であったクニマスをはじめとする魚類は全滅してしまった。田沢湖に湛えられた深い水の色は実際は火山の火口湖などと同じ、酸性の水による死の色なのだ。大規模な環境破壊というとたとえば運河のおかげで干上がってしまったカスピ海だのといったように外国のことのように感じるむきも多いとは思うが、日本にしてもあまり言えた義理ではないのである。発車時間が近づいたので列車に戻る。雪は小降りになっていた。発車まぎわにおじいさんが一人乗ってきて前の方の席に陣取ったが、それを入れても4両編成に乗客はわずか5、6名。マイクロバスどころかワゴン車で代行可能かもしれない。定刻より少し遅れて隣のホームに上りの盛岡行の普通列車がすべりこんでくる。2両編成で、ボックスごとに一人程度は乗客がいた。入れ替わりにこちらが動きはじめる。

ふたたび森の中に入り、トンネルもない低い峠を越える。ここで小さな平野を形作っている玉川はふたたび南に立ちはだかる山地に分け入り、抱返渓谷で知られる深く切れ込んだ谷を穿ってから角館盆地に抜けているからだ。国道46号線が寄り添ってくる。さっきまで直線的に谷を切り開いていた線路は今度は谷筋に沿って国道と一緒にうねうねと下ってゆく。風が強くなってきた。峠の森を抜けるころには空は澄んで、雲の形が見えてくる。角館盆地に入ったからだろうか。風はますます強くなってくる。一面の雪原のところどころに杉木立が並んでいるが、小枝が吹き折られて風下の雪の上いちめんにばあっと散らばっている。妙な風景だ。時々車体をべちべちと叩くのは大粒のみぞれか、あるいは雨粒だろうか。神代で上り「こまち」と交換している間に本格的に荒れた天気になってきた。ふと気がつくと進行方向右側に一条の細い線路が寄り添ってきている。角館で接続する秋田内陸縦貫鉄道線、かつての国鉄角館線の線路だ。現在角館口は一往復の急行を入れて一日11往復の運転があるが、国鉄時代は一日に3往復という、全国に知られた街角館から伸びる鉄道とも思えないものすごいローカル線だった。ぼんやりと西日が射す中、角館の3番ホームに到着。わずかに遅れている。一番駅舎寄りの1番ホームのさらに向こうにさっきの在来線幅の線路が入っていて、秋田内陸縦貫鉄道の2両編成の車両が静かに停車している。ここでまた25分停車だ。終点大曲まであと1時間。

角館の駅舎は田沢湖やこれまでの主要駅と同様、新在直通工事のおりに立て替えられた新しいものだが、城下町の古都のイメージにそぐう黒瓦屋根の平屋で、小さいながらも好感のもてる建物だ。待合室にも、併設された駅のコンビニNEWDAYSにも人がうごめいている。都会からの旅行者だろうか、女性2人連れが3番線に止まっている列車を見て駅員に「あの“こまち”は次の“こまち”ですか」なんて訊ねたりしていた。姐ちゃんなかなか見る目あんねぇ走り出したら結構速いんだぜしかも驚くなよ何と吊革とドアボタンにワンマン運転装置までついてんだからななどと思いながらコンビニに入り、持ってくるのを忘れたタオルなどを買い込んだ。ついでに秋田内陸の小ぶりな駅舎も覗いてみる。コンビニの脇からトイレの前を通る屋根つきの通路で結ばれている。こちらは明日の朝に乗る予定になっているが、使えそうな割引きっぷの類があるかどうか調べたいのだ。窓口は開いていたものの人影がない。壁にべたべたと貼られたポスターを眺めてみたが、一日フリーきっぷはあるものの片道の運賃より結構高かった。予定では片道を乗り通すだけである。ほかに沿線でお祭りがあるときに売り出される割引きっぷというのもあった。駅の事務室の隣は小さな食堂になっているようだが、カーテンが引かれ、本日定休の札が下がっていた。その前は雪に埋もれた駅前のロータリーである。角館の街は人力車で散歩できるようで、駅のスタンプにも人力車がデザインされていた。ロータリーに面して車力小屋(実際には小屋ではなくて、倉造りを模した新しい建物)もあったが、明かりはついているものの人影も、乗ろうという人もない。桜の季節になればきっと店の前に俥が並ぶのだろう。今はタクシーが数台客待ちをしているばかりだ。

さて、あと一息である。秋田行の「こまち」は少し遅延しています、という案内の中改札をくぐり列車に戻る。風も雪も一段落していた。跨線橋の窓に「ごみを投げ捨てないで下さい」という張り紙がある。2万ボルトの流れる架線にひっかかったりすると厄介なのだろう。駅はすっかり街外れにあり、跨線橋の上から眺めることができる駅裏手は雪原のむこうに道路やコンビニやガススタンド、その裏手を低い山が護っている。やがてこの列車を追い抜く二本目の「こまち」が入ってくるとの放送がある。さっきの701系がこまちに見える姐ちゃんどもが暖房の入っているホームの待合室から出てくる。と、「…大曲・神宮寺間で強風のため運転を見合わせていますんで…」という会話が聞こえてきた。姐ちゃんがホームの上で暇していたこちらの列車の運転士に何か訊ねている。大曲までは行けますから、そこで訊いて下さい、と会話は続いた。さっきの風じゃ抑止も仕方がないが、じき解除になることを希望したいものである。大曲からは30分ほど待って院内始発の秋田行に乗り継ぎ、今日中に青森まで行って駅前のカプセルホテルに泊まるつもりだが、秋田から先の接続にはあまり余裕がない。1842秋田発の1671Mを逃すと今日中に青森に到着する列車はない。もちろんこれは「18きっぷを利用して」という条件つきでのことで、1931発の青森行「いなほ」に乗れば弘前で追いつくことは可能だ。が、何より青森まで行くのは「カプセルホテルなら安いから」「もし泊まれなくても青森なら終夜営業のファミレスがありそうだから」という文字通り現金な理由で、弘前までの運賃と特急料金を払ってまで本州の北端の県庁所在地に行く必要はないのだ。さきの1671Mに乗れなかった場合次に乗るべき列車は大館行の最終の普通列車だ。大館で泊まると翌朝の秋田内陸縦貫鉄道は一本早い列車に乗ることができて後あと便利なのだが、大館の駅はビジネスホテルが多く建ち並ぶ街の中心部から結構距離がある(花輪線の東大館の方がずっと近いが、最終が到着した時には花輪線の接続列車はもうない)。夜中にホテルを探して雪道をうろうろするのは少し億劫である。もっとも予定が詰んでしまうわけではないから、結構微妙なところだ。

時刻表を確認している間に「こまち」が出ていく。立ち客がいるほどでもない乗車率だった。あの「こまち」が大曲で運転取りやめになったりしたら普通列車の方にも人が流れるんだろうなと思う。ふと顔を上げると、窓越しに見ることができる駅の改札の明かりが落ちている。こちらの発車までまだ数分あるのに気の早いこと、と思ったが、何だか様子がおかしい。今座っている席からはホームの待合室が邪魔になるので前の車両の方へ歩いていった。見ると駅の明かりがすべて消えている。何気なく前方を見ると、つい今さっき「こまち」が出ていって赤になっているはずの出発信号が消えている。ドアボタンを押してホームに出て見渡してみると本線の信号は真っ暗だ。あまりよくは見えないが、真っ暗な駅舎越しに見える駅前もやはり真っ暗だ。停電したらしい。鉄道の信号が巻き添えをくらったようだ。また風が出てきた。はたして車内に戻るとすぐに放送があった。信号機が停電した関係で発車を見合わせております。原因はまだわかりません。復旧の見込みは立っていません。原因はさっきの風に決まっておろう、と思ったがこれでは仕方がない。架線の電気が生きているだけ寒くなくて済んだと思うべきか。さっき出ていった「こまち」はもしかしたら駅でもない場所で立往生かもしれない。驚いたことに(というか、電源供給元が別系統なのだろうが)秋田内陸縦貫の方の二灯式の信号機は生きていて、やがて二両のディーゼルがしれっと出ていった。ダイヤ通りならこちらと一分違いで出ていく列車だ。今のディーゼルに乗れば鷹ノ巣で予定していた列車に接続するはずなのだが、田沢湖線のわずかに残った未乗区間をおっぽり出してまで先を急ぐ必要は前述の通り、ない。

発車時間までに乗り込んできたまばらな乗客たちの多くは高校生である。ワンマン運転時の習慣か一番前の車両が一番乗車率がよく、ったくよーつ発車すんだよ、という感じでくっちゃべっている。暇なのでコーヒーでも、と思いホームに出るが、自動販売機がない。もっともあったとしても、停電では動いていなかっただろう。待合室に入ってみるとさっきまで中を暖めていた家庭用のハロゲンヒーターが冷え切っている。改札口の向こうでは真っ暗な中で上りの「こまち」を待ってる人たちが辛抱強く座りこんでいるのが見える。駅員が一人出てきてホームに降り込んだ雪を寄せ始めた。雪が降り始めた。風も出てきて、雪片が渦を巻いてホームを流れていく。線路を見透かしてみるがもちろん列車などくるはずもなく、表示の消えた信号機の隣で雪に埋もれゆく線路はまるで廃線敷のようだ。しだいに夕暮れの色に染まりつつある風景はさっきから一歩も動けない我が大曲行の車内、秋田内陸縦貫の線路端で脳天気に赤を現示するちゃちな信号、遠くの車道を往く車のライトだけが光るものだ。もう少し日が短ければもう本当に真っ暗だったろう。ホームの端でぶらぶらしていると当然寒いのでまた車内に戻る。高校生が固まっているあたりからしだいに倦怠感が漂いはじめている。所在なく時刻表を開く。復旧が遅れて今日中に秋田までしか行けなくても明日の下り始発に乗れば青森から乗り継いだのと同じ秋田内陸縦貫の列車には乗れる。角館からは昼間の普通列車が全然ないので大曲まで「こまち」を使い、あとはひたすら南下して日付が変わる前に土浦まで戻る、というプランである。5時を回って暗くなってきた。ここから先の風景は明日もう一度通るまでお預けということになる。後ろの方から列車無線のノイズ混じりの通信が聞こえてくる。列車番号を流しているので聞いていると、どこかで止まっているはずの後発の「こまち」二本の乗客を一列車に束ねてどうの、とやりとりしているのが聞こえた。

ふたたび寒いホームに出て伸びをしたりしていたが、ふと見たら信号が復電していた。もちろんまだ全部赤である。街はそれからもしばらく真っ暗だった。ふいにまるで音がしそうな勢いで駅舎の電気が一斉に点った。過渡電流で電線が焦げないか心配になるくらいである。また列車無線が聞こえてきた。835M車掌応答願います。この列車のことだ。ぼそぼそしたやりとりがあってから車内放送が入る。さきほど信号機故障は復旧いたしましたが、現在、順次運転を再開しています。もうしばらくお待ちください。まだかよ〜、俺歩いてっちゃうぜ〜なんて前の方から声が聞こえてくる。たしかに隣の駅くらいまでなら歩いた方が早そうではある。ただし、この風と雪の中を、だ。貫通路越しに後ろの方で携帯の話し声も聞こえる(停電している最中も話していたようだ。携帯の基地局は電気が落ちなかったらしい)。まだ発車しないの〜。今信号が復旧したって。しばらくするとホームに放送が入った。回送列車が通過します、という。ややあって盛岡方から「こまち」の車両がしょんぼりと走ってきた。車内はもちろん空っぽだ。さっき無線で聞こえてきた一本後の列車の車両だろうと思う。まだしばらく発車しそうにないのでふたたび改札を出て、NEWDAYSで念願の缶コーヒーを買ってくる。そろそろ上りの「こまち」が到着するとのことで人々が腰を上げ始めていた。やれやれやっと来たぜ、という感じである。停電とともに電気が切れたように止まっていた時間がまた動き始めた、といったところか。おそらく定刻より1時間ほど遅れて、上りが到着した。この列車が交換する予定だった4本目の「こまち」だ。後はこちらの発車を待つばかりとなる。何度も放送が入り、そのたびに発車予定時刻が5分、3分と伸びていく。列車が動き出したのは6時を回ったころだった。1時間34分遅れていた。

あたりはもう真っ暗だ。雪がまだちらついている。二つ目の羽後長野で行き違いのためにまた10分ほど停まった。しばらくしてやってきたのははたして701系、すれ違う2本目の普通列車だ(ダイヤ通りならこの先の羽後四ツ屋で交換予定だった)。さらに遅れたと思うが、もうあとは大曲まで何事もなく走ってくれれば言うことはない。次は鑓見内(やりみない)。音だけから漢字を書けと言われてもちょっと難しいだろう。北大曲を過ぎると左手前方に大曲の街の明かりが見える。1時間40分遅れて大曲到着。新幹線ホームを含めて5番線まで(二面ある新幹線ホームは11、12番線と付番されているが)ある、橋上駅舎に駅ビルがついた、大きな駅だ。冬場のこのあたりでは3時間くらいまでは遅れに入らない、とは思うが、それはともかく次に乗るべき列車は何時何分に来るのだろうか。JR東日本在来線完乗したぜ、という感慨もなにも放ったらかして駅の放送に耳を傾ける。本線はあまり遅れておらず、1906の秋田行が次の列車ということだ。今日中に大館までは到達できそうだ。

久しぶりの大きな街なので(なんせ盛岡を出てはじめての「市」である)列車の時間まで用事を済ませておきたい。まず大館の宿を当たろうと思って電話機のある場所を探す。みどりの窓口が併設された待合室には仙北と秋田市近郊のタウンページはあっても秋北地区のそれがない。念のために待合室に積んであるパンフレットを見渡してみるがディズニーランドや仙台のツアー旅行のそれはあっても大館の街の案内のパンフレットなんて置いてあるはずがない。やけに幅が広い階段(「こまち」の止まる駅はこんな感じの広い階段がある駅ばかりだ。当時の設計業界は階段ブームだったのだろうか)を下って駅前広場に降りる。大きな街のにぎやかな駅前のはずなのだが、もう真っ暗である。閉まっている旅行代理店が入る駅ビルの隣のNEWDAYSで弁当を買うついでに地図を立ち読みすることにする。店の前ではちょうど水を撒いて雪を溶かしていた。普段からきちんと除雪しているのだろう。路肩には新雪ですという感じの雪がこんもり残っている。入り口のタイルで滑りそうになりながら店に入り、一応大館の街なみを再確認してから弁当を暖めて貰う。なぜここで地図を確認したかというと、予定どおり列車が動いたとしても大館到着は2156、土曜日ということも考えあわせれば観光案内所なんて開いてないに決まっているからだ。。記憶にある大館の駅前の風景といえばこれまた、雪の吹きつける中に屹立する忠犬ハチ公の銅像だけが印象に残る、これでもかというほど何んにもない場所だったと思う。市街の中心部に行けば遅くまで開いているコンビニくらいあるに決まっているが、まず中心部まで迷わずに辿り着かないといけない。

秋田行はホームの階段を下りてUターンした橋上駅の真下あたりが乗り場だ。その昔は東京からの特急「つばさ」や急行「津軽」などが発着した長いホームはもはや無用の長物と化し、長く伸びた屋根が待つ人もいないがらんとした暗いホームを無駄に雪から守っている。架線柱には「院内系」と丸ゴチックで書かれた黄色いプレートが掲示してあった。院内は本線の50kmほど上野方、山形県境の手前にある駅だ。架線の電気系統の区分だろうと思うが、アミノ式のCMなどを連想させる掲示である。その手前は頭上にせり出した駅舎を支える円柱が幾本も立っている。そのうちの何本かは15度ほど線路側に傾けてある。あまり線路側に寄せすぎるとホームの端が狭くなって危険だと判断したのか、設計者のお遊びなのかはわからない。傾いて並ぶ円柱の上側には当然のようにうっすらとほこりが積もっているが、そこにいくつもの手形がついている。学校帰りの高校生どもがジャンプ力を競いあった青春の記録に相違ない。一とう抜きんでた高さに2、3個の手形がつけられている。肩車というチームワークのなせる反則技が繰り出されたものと思われる。周囲の驚きと非難の声が目に浮かぶようだ。秋田行は4分ほど遅れている、と放送が入った。女の子が線路二本挟んだ向こう側のホームにあはは、遅れるんだって〜と叫んでいる。対岸にはそろそろ上りの新庄行がやってきてここで交換することになっている。そちらに乗るのだろう、友達らしい女の子と大声で話している。また放送が入り、今度の列車は刈和野を10分遅れで出発しました、という案内に上りホームの子がぎゃー、刈和野だってぇ、とまた大声を上げる。刈和野はここからまだ2駅秋田よりだ。ほどなく秋田行の2両編成がやってきた。乗り込んだ乗客たちにより、ほぼ席が埋まった。いい加減冷めかけてきた弁当をさっさと平らげ、ぐうぐう寝て過ごした。目が覚めると四ツ小屋に到着する直前だった。秋田まではあと一駅である。

下車する人波と一緒に改札を出る。乗り継ぎ列車まではあまり時間がないが、もし観光案内所が開いていたら大館の安宿の事情を聞き出せるかもしれない、と思ったのだ。が、2分後、ふたたび改札をくぐることになった。秋田駅は改札の前に連絡通路があって、その両側は土産物屋や観光案内所が軒を連ねるアーケードのようになっている。が、土曜日の午後8時、そこはすでにシャッターストリートだった。まだ上野と大阪へ向かう夜行が一本ずつ、0時過ぎまで普通列車があるし、東京からの「こまち」もあと5本到着する。列車から降り、あるいは乗るために改札をくぐる人は多い。いくらなんでも夜が早すぎるんじゃないか、などと思いながら1番線で待っている大館行の列車に乗り込む。701系の3両編成は秋田から家へ帰る人たちでけっこう混雑していた。車内放送が入り、遅れている「こまち」を待って10分ほど遅れる、と案内される。車内に溜息が漏れる。空いている席を見つけ、早速うつらうつらしているうちにいつのまにか発車していた。駅に停車したので気がつくと「おおくぼ」の駅名標が暗い中に見えた。手動式のドアが開いて冷気が忍び込み、かわりに結構な人が降りてゆく。次に目が覚めたのは二ツ井で、あと少しだなとは思ったもののどうせ降りるのは終点なのでそのまま睡眠を続行した。目が覚めると列車は減速していて、車窓の灯りが雪景色を照らす中線路が広がり、列車はポイントを渡って雪のうっすらと積もるホームに到着した。駅名標や車内放送に依るまでもない、終点の大館だった。盛大に雪が降っているのが見える。時刻は22時10分を回っている。20分ほど遅れて到着したらしい。

寝ぼけまなこで改札を出る。キヲスクから待合室から隣に併設されたNEWDAYSから何から全部灯りが落ちている。列車から降りた人の一部はタクシーに乗りこみ、残りは降りしきる雪の中、市街中心部を目指して歩いて行ってしまう。その中に足を踏み出すのも億劫に感じられるほど雪が舞っているが、雪が舞っているということはすなわち寒いということだ。後ろで改札の灯りが落ちた。すぐに駅の入口も施錠されるに違いない。とりあえず電話ボックスがあったはずだとあたりを探す。タクシーが客待ちをしている手前にそれは見つかったが、入口手前にすでにこんもりと新雪が積もっていて、踏み込むとGパンの裾から粉雪が入り込んできて冷たい。タウンページを開いてビジネスホテルの欄にいくつもの記載を見つけ、さて電話しようと電話機にカードを突っ込もうとすると挿入できない。「ランプが消えている時は硬貨でおかけ下さい」とのお馴染みの注意書きが目に入った。そして赤く光っているはずのランプは消えていた。仕方がないので財布の中を漁る。1円玉と5円玉と50円玉しかなかった。秋田駅で缶コーヒーを買ったときに全部使ってしまったらしい。使えない電話機をとりあえず罵っておく。目の前に止まっているタクシーに乗り込んで「ホテルまで」などと言えない自分の懐事情はとりあえず措いておいてどうするべきか考えた。答えは一つである。つまり、ここは寒い。路肩に積もる雪の堤防を踏み越え、轍が残るぶんずいぶんと歩きやすい車道を大館の中心市街にむけて歩きだすことにした。

たしかこっちだったかなとロータリー右側から斜めに伸びる広い道を行く。前の方に列車から降りた人影が歩いているのが見える。すぐに踏切を渡る。小坂鉱山からの貨物線で、鉱山から下ってきた線路は本線の駅を右に見ながら通り過ぎ、秋田寄りにヤードを設けてそこで合流するというルートをとっている。10年ほど前までは旅客営業も行っていた鉄道だが今は貨物輸送だけだ。今日は休日で列車も運休だったはずだ。すっかり雪に埋もれた線路は踏切の棒がなければそれと気づくこともないだろう。その先で道はさらに曲がり、両側に並木がある新しい大通りになった。これをずっと行けばいいだろうとしばらく歩いた十字路の付近にコンビニやもう閉まったモスバーガーなどが固まっていた。交差する道の向こうにはTSUTAYAらしき看板も見える。降りしきる雪のおかげで結構近くまで寄らないと何の店だかわからない。店内に盛大に雪を払い落としながら安傘を購入し、また歩き始める。すぐに長木川にかかる橋が見える。市街を大館駅と東大館駅側に二分する川で、古くからの街の中心地は川の向こう側だ。そのたもとにガストとレンタルビデオ屋があった。ガストの開店時間を確認すると午前5時までの店で、朝までまた粘ってもいいな、と一瞬思うが疲れて眠りこけたら店に迷惑なので止めておいた。

橋を渡っている途中で隣に車が止まった。見ると巡視中のパトカーで、いちおーここ、車道なんでね、とおまわりさんが顔を出した。しかし、ほんらい歩道であるべきスペースはもはやゴム引きでも履いてないと通行不可能だ。わかっていても注意しないといけないのが警察の気の毒なところである。気ぃつけて帰って下さいね、と助手席の窓が閉まる。パトカーの後ろ姿が雪霞みの中をのろのろと遠ざかっていく。帰宅途中の人と思われたらしい。この先に帰る家があればね、と思いながらあいかわらず轍に踏み固められた車道の端をゆく。車がさほど減速もせず脇を通り過ぎてゆく。その先は公園かなにかで、盛大に雪をかぶった遊具が雪明かりに侘しい。国道7号線と交差し、新しい道路らしく市街地の小さな谷間を陸橋で越したりしながらしばらく行ったところにまたコンビニがあった。たいてい店のドアに記されている名前を確認して店内で地図を立ち読みすることにする。入口では店員が盛大に雪かき中だった。今いる所は東大館の駅のすぐそばで、目の前の交差点を来た方向から左手に曲がるとよい、ということらしかった。さっき駅を出るときに左側の道を通ればもう少し近かったようだ(その場合、途中にコンビニか何かがあって傘が買えたかどうかは怪しい)。

歩き始めてしばらくするとまず飲み屋が増え、道を歩く人がちらほら見えはじめる。少し広い道の交差点にアーケードがついていた。商店街の通りらしい。何度も錆止めペンキを塗りたくられた古びた鉄パイプ組みの上に波板が乗っかっただけのものだが、まだ開いているスナックなども見え、大館が大きな街であることを教えている。少し歩くと雪空に大きな建物が聳えている。秋北ホテルという大きなホテルで、窓に点る橙色の灯りが人心地を感じさせてくれるが、インターネットで名前だけは確認してある安ホテルはどうやら行きすぎてしまったらしい。先の路地から一本駅寄りの通りに曲がって引返し、秋北ホテルの正門側から2ブロックほど戻った、さっきのアーケードの通りの手前くらいで目指すビジネスホテルらしき姿を発見した。もう灯りも暗い狭い入口扉を押してこれまた狭く安っぽいロビーに入るとフロントの奥からいかにも支配人ですという雰囲気の細面の老人が現われた。シングルの安い方の部屋を、と頼む。今日中に青森まで行くつもりだったんですけど、汽車がなくなっちゃいましてねえ、と言うとええ、今日はもう20センチくらい積もりましたね、明日朝までにまだ降るみたいです、と老人は答えた。安宿のとおり部屋は荷物をかついで歩くと壁にこするほど狭く、便所兼ユニットバスを開けると見た目は清潔なものの長いこと人が入っていなかったのか饐えたにおいがした。ライティングデスクとベッドだけは比較的新しいデザインのものに入れ換えられており、それが室内においていっそう浮いて見えるがそんなことはどうでもいいのでとりあえずユニットバスの換気扇のスイッチを入れ、荷物を放り出してベッドに腰かける。部屋に入って始めてGパンだの靴だのに盛大に雪がこびりついているのを発見した。コートをハンガーにかけてスリッパに履き替え、トイレに入って出てみると不燃絨毯の上にこんもりと水溜りができていた。先にシャワーに入ろうかとも思ったが疲れているし、風呂に入ることより明日の朝6時までにここを出ることの方が重要なので浴衣に着替えてから持参の目覚し(ついこの間壊れて買い替えたので、本格的に使うのは今日が始めてなのだ)を5時、モーニングコールを5時半にセットして寝ることにする。部屋に入った時に真っ暗だなと思ったのだが、ガラスのはまるサッシ窓の内側はカーテンではなく、押入の戸のような重い板の引戸になっている。以前東北地方の某都市で泊まったことがあるホテルもこんな窓だった。遮熱ガラスなんて贅沢なものを使っていない場合、カーテン+二重窓の組合せなんかよりこちらのほうが防寒性は格段に高い。引き戸を引いて窓を開け放つと雪が舞い込んでくる。道路をはさんで向かいは駐車場で、止めてある車の持ち主が盛大に雪かきをしていた。ほんの数分開け放っていただけで窓枠の内側に雪が積もっている。テレビをつけてみるとこの時間のローカル局は東京の番組と同じものを流していてたいへんつまらない。明朝、寝過ごしたとしたら何時がデッドラインか(大館を何時に出る列車なら無理のない時間に土浦に戻れるか)を再確認してとっとと窓を閉め、もう一度だけ時計のアラーム設定を確認して部屋の灯りを消した。JR東日本の在来線を完乗したのだ、という満足感だけですぐに眠ることができた。
2004年3月7日(日) 天気:晴れ→雪
大館〜鷹ノ巣//鷹巣(駅名違うん)〜角館〜大曲〜新庄〜鳴子温泉〜小牛田〜仙台〜いわき〜土浦。

3時ころに一度目が覚めたのだが、持参の目覚しのアラーム音とともに起きた。窓はぶ厚い板戸が塞いでいるし(開けて寝ようか、とも思ったのだが街灯の光が入ってきてまぶしいし、何より少しでも開いていると寒い)部屋に光がないと今何時なのかにわかには判らない。目覚しをセットした時間を思いだしながら浴衣を脱いでシャワーを浴びる。換気扇を入れっぱなしにしていたのにバスルームはまだ饐っぱい臭いがする。湯上がりにタオルを見るとホテルの名前がマジックペンで記されていた。その筆跡も相当薄れている。鞄から鬚剃りを出して顔を整え、髪を拭っているとモーニングコールが鳴った。ライティングデスクに備え付けのIH湯沸しでお茶を一杯入れ(これは宿に泊まった時に行う儀式みたいなものだ。ちんちん、こぽこぽと湧く湯の音を聞いていると不思議と落ち着く)、その間にふたたびテレビをつけて別段異常がないことを確認し(秋田近辺で鉄道が不通になるような事態が発生していたら、少なくとも早朝のローカル局のニュースにはなるだろう)湯沸しのコンセントをふたたび抜き、窓の板戸を開けてみる。昨晩開けたとき窓の内側に積もってきた雪は表面張力でこんもりと盛り上がった水溜りに変わっていて雪はほとんど止んでいた。表通りのほうから除雪車だろう、エンジンのうなる音が聞こえてくる。5時40分過ぎ、身支度を整えてフロントに下りる。昨晩とは別の、小太りのホテルマンがロビーを掃除していて、鍵を受け取ってくれる。朝早いですね、ご苦労さまです、という声に見送られて入口扉を押し、早朝の大館市街に一歩を踏み出した。

家々の屋根はこんもりと白く覆われている。小学校の時分、雪が積もるとみんなで校庭に出て竹の定規で積雪量を計ったりしたものだが、当時持っていた30cm定規が全部埋もれてしまいそうだ。大通りを行く除雪車の音がひびいてくる。さて駅はどっちだったかね、と歩き始める。昨晩ここにたどり着く途中でローソンの看板が見えた気がしたので朝食を調達したい。が、見つからないまま国道7号線に出てしまった。そこはすっかり明るくなった大館の中心市街で、前方からうなりを上げてゆっくりとやってくる巨大な姿がある。道路用の除雪車である。ロータリーで雪を集めて遠くに飛ばす装置などがついているが、街の中を走っている今はスノープラウで路肩に雪を除けてるだけだ。ごっついその姿が通りすぎた後には除雪車の轍だけが残るつるつるの踏面が残っているだけだ。スノープラウに均された部分はあまりに均質なためにまだ光っているナトリウム灯を反射して光っている。実はこれは意外と滑べりやすい。乾いた道路に片栗粉をまんべんなく撒いた状態、と思ってほしい。自重がそれなりにある自動車なら何の問題もないのだが、普通の靴を履いた普通の人が歩くと結構つるつる滑べる。歩道は昨夜このあたりまで歩いてきた時以上に普通の靴お断り状態だ。早朝でも歩く人の姿は少しはあり、みんな歩きにくいなぁと思っていることだろうと思う。駅に続く通りの交差点は昨日目撃したアーケードの反対側(大館駅側)の終点になっていて、つるつる滑べりながら歩いていくと長木川を渡る。向こうに昨晩ちらりと見えたジャスコの褪せたピンク色が市街に浮きだして見える。河川敷はいちめん白で、橋の中央から周囲を見渡すと大館盆地は山に囲まれているのだ、ということがよくわかる。空は晴れていたが、これから向かう秋田県内陸部の山なみのほうは灰色の雲がその上を覆っていた。何軒かの商店や住宅の前では早起きな人が箒だの何だのを持ち出して前を掃いていた。前方に人影が見える。駅まで歩いて行く人だろうと思う。橋を渡った駅側は御成町という界隈で、かつて鉱山成金が豪遊でもしたのだろうか、と思わせる地名だ。

早朝の光が侘しい巨大なジャスコの建物を過ぎて少し行くとアーケードが出現する。が、車道とアーケードの間は除雪された(これは昨夜のことだろう)上にまた新雪がこんもりと積もった雪の堤防がベルリンの壁を形成している。こういう場合、たいていは勇気ある先駆者である歩行者数名、または善意のアーケード街の人数名により雪の堤防を乗り越えるルートが確立されているものだが、いささか季節外れの大雪が降り積もった翌日の早朝にそんなルートが開拓されているはずがない。かといって雪の全然積もっていないアーケード内部を横目につるつる滑べりながら車道を歩き続けて自動車に喧嘩を売るのも嫌なので、がんばって雪山を峠越えしてみる。Gパンの裾までがずっぽり雪山に埋もれた。吹き寄せた雪が薄く積もるだけのアーケードを1ブロックも歩くとその先は小坂鉱山線の踏切だ。あいかわらず、虎色の遮断棒がなければそこに線路があると知れることはない。記憶に従ってその先で左に曲がる。昔はこの左手に鉱山線の巨大なヤードがあって、そこに旅客列車の発着する駅もあったはずである。今はここにあったヤードは本線の合流点に移転統合され、片隅に線路が一本通っているだけの広大な雪原があるばかりだ。3年ほど前の正月に大館を通った時、少し時間があったのでこのあたりまでは歩いてきたことがある。その時以来の風景がそのまま残っていた。御成座、という古めかしい映画館がある。3年前に見た時は営業しているのかという感じだったが、蹴れば崩れそうな落ち立看に洋画の新作のポスターがへばりついている。ちゃんと経営しているらしい。時間があったらここで見るのに、と思う。駅前までくると駅前旅館か何かの持ち物らしい小型の除雪車が盛大に歩道の雪を飛ばしていた。駅の待合室に入ると結構人がいる。秋田方面にむかう高校生が多かった。結局朝飯を買いそびれたな、と思いながらキヲスクでカロリーメイトを入手して、かじりながら始発の快速を待った。

始発の秋田行の快速は改札側ホームの発車で、昨夜ここまで乗ってきた編成だった。手前の1両分くらいはホームも雪が避けられているが、反対側のホームに渡る跨線橋の先はまだ吹き込んできた雪がこんもりとドアとの間を隔てている。そんな雪を踏み越え、もう暖房の効きはじめている先頭車両の車内に盛大に雪を持ち込んでみる。靴底からはがれ落ちた平たい和三盆糖みたいな雪のかたまりがリノリウムの上でゆっくり溶けていく。後の方の車両は結構混んでいたがこちらは一両に数名、という乗車率で定刻で発車。左手からさきほど歩いて越えた小坂からの貨物線が合流してくる。側線に並んだ黒い貨車が雪を載せている。列車は容赦なく速度を上げて分岐していく花輪線をくぐり、雪を舞い上げながら雪原に飛び出す。夜の間に列車は貨物を主体として多く通ったはずだがレール面はうっすらと雪に覆われて、行く手に架線柱の列が伸びていなければ何もない雪の中を突っ切ってゆくようだ。山の端が近づき、長木川が迫ってくる。対岸は長木川と米代川が合流する地点に広がるちいさな平野部だ。すぐに集落が現われ、下川沿駅を通過。秋田までの始発列車であり、同時に秋田からの東京行「こまち」に接続する使命を帯びた701系の3両編成はこの先早口、糠沢と、まだ眠そうな小駅を小石のように抹殺しながら疾走してゆく。18kmをわずか14分で駆け抜けた最初の停車駅が、次に乗るべき秋田内陸縦貫鉄道に接続する鷹ノ巣である。先頭の車両に乗ったのはここでの接続時間が時刻表上でわずか1分であり、以前何度か通った時の記憶によれば鷹ノ巣の秋田内陸縦貫鉄道のホームは本線のホームの秋田寄りに位置していたからだ。

時刻表によるとこちらの発車は0644、秋田内陸の発車は0645でまさにぎりぎりであるが、下り列車のページを見ると東京から羽越本線を経由してくる下りの夜行列車が鷹ノ巣を0643に発車している。このあたりが単線区間なら快速列車と夜行列車は鷹ノ巣で交換するのだな、快速列車は0643には鷹ノ巣に到着しているなと結論づけられるところだが、実際は鷹ノ巣から大館側の早口までは複線化されている。快速と夜行は鷹ノ巣のちょっと手前ですれ違うことになるのだ。従ってこちらが多少遅れたところで下りの夜行列車の発車時間には影響を及ぼさないし、秋田内陸としては専ら下りの夜行列車に接続するつもりでダイヤを組んだように思える。こちら側が遅延した場合、わざわざ接続を取ってくれない可能性もある。しかしこの接続を逃すと次に秋田内陸線を乗り通せる列車は0853発の急行までないし(途中の阿仁合までは2本の区間列車があるが)、この列車だと角館から先は「こまち」を利用せざるを得ない。この急行列車はそもそも昨日青森まで行けたときに乗ろうと思っていたのであり、その意味では当初の予定どおりなのではるが、ほんらい青森まで行こうと画策したのはカプセルホテルないし深夜営業のファミレス利用により相応に宿代を浮かせると画策してのことだったのだ。大館で曲がりなりにもちゃんとしたビジネスホテルに泊まってしまった以上、「こまち」ごときに余計な出費をしたくない。そもそも昨夕に暗くなってから通らざるを得なかった角館〜大曲間はどうしても普通列車でもう一度通っておきたい。そんなわけで乗り継ぎ時間のリスクを少しでも減らそうと思って先頭車両に乗ったのだが、雪煙を巻き上げて米代川沿いを疾走した快速列車は鷹ノ巣に定刻に到着し、小走りで秋田内陸の乗り場(跨線橋の向こう側にある)に向かっていると下りの夜行列車が青い車体を鈍く光らせながら向こうのホームに入ってきた。そちらが少し遅れていたらしい。JR線と秋田内陸線とは中間改札もなしに乗り換え可能だったが、ホームを切り欠いて設けられた秋田内陸の乗り場に向かう手前に内陸線の小さな駅舎があった。改札の脇の窓口越しにぎっしりと硬券を納めた改札器が見えた。切符マニアには見過ごせないだろうなと思いながら少しくすんだ色の大型レールバスに乗り込む。二両編成だが、前の車両との間は貫通路で仕切られた上、何か雰囲気が異なっている。貫通路越しに木製の衝立のようなものが見える。そちらの車両は赤を基調とした色に新しく塗られていた。昨日角館で見た2両編成もこんな感じだった。同じ編成かもしれない。

鷹巣と書かれた駅名表が窓の外を過ぎてゆく。これで「たかのす」と読む。JRのほうはそれでは「たかす」になってしまうとでも思ったのか鷹ノ巣と間にノが入った漢字表記になっている。同じ駅内に路線によって微妙に異なる表記が同居していることになるが、第三セクターに転換されたときに駅名を地名表記にでも合わせたのだろう。ひとつの駅に異なる鉄道が乗り入れている場合、片方が頭に「電鉄」をつけたりするのは時々見かけるし、また全然違う駅名として青森県に三沢(JR東)と古牧(ふるまき)温泉(十和田観光電鉄)が同居しているというパターンがある。JRで三沢の駅に到くと「古牧温泉はこちら」などというでっかい看板があって電鉄に乗りたい人々を混乱させているが、これは元々三沢駅が以前は古間木(ふるまき)駅と名乗っていたことに関係しているのだと思われる。が、この鷹ノ巣/鷹巣駅のように微妙な異なり方というのは全国的に見ても珍しいかもしれない。以前はやはり青森に野辺地から出ていた南部縦貫鉄道という鉄道があり、これはJRのほうが「のへじ」、南部縦貫の方は漢字は同じで読みが「のへぢ」だった。確かに「地」が濁音化したと考えれば「ぢ」の方が適切ではあるが。左へカーブして奥羽本線の架線柱の列から離れ、また降ってきた雪の中をごろごろと少し走ると西鷹巣。わずかの間に空も真っ白く濁ってきていて、線路脇に片面ホームとくすんだ色の待合室があるだけの駅だった。列車を乗り換えただけでがらりと世界が変わったようだ。同じ地域の鉄道でも路線の役割や経営会社によって全く印象が異なるのだ。かつては国鉄阿仁合線だったこの路線が第三セクターに移管されたのは1986年のことである。

米代川の鉄橋を渡る。この区間は昭和9年に開通しているが、河川改修に伴うものか一度架け替えられた形跡がある。堤防を乗り越す高さをかせぎゆく築堤の脇に元の路盤と思しき、一段低く潅木を生やした段が寄り添っている。雲が薄くなったらしく、鉄橋を渡るあたりから雪霞の間に光が差してきた。山の端から陽が顔を出したのかもしれない。鉄路はここから段丘をよじ登りはじめる。うねうねと彷徨う線路の両脇に杉の植林が続く。雲が切れ、射してきた日差しに木々が載せた雪帽子がさらさらと流れ落ちていったりする。北海道や北東北ではよく見られる、気分を高揚させる好きな光景だ。登り切ると大野台。プラットホームから道路一本隔てたむこうは森を切り開いた工業団地だ。こういう地勢を見るにつけかつては引込線が生えていたかもしれない、と気をつけているのだが、片面ホームだけのこの駅は貨物扱いをしたこともないようだった。ふたたび林の中に分け入る。空はわずかの間にすっかり晴れて、まぶしい朝日がこちら側のボックスシートを照らしている。線路がうねってゆくたびに四角く切り取られた白い光が車内を動いてゆく。この車両は前のボックスに鉄道ファンらしい壮年の男性、後の方に地元客らしい姿が少し見えるだけだ。これまでの駅で乗ってきたわずかの乗客はほとんど前の方の「雰囲気の異なる」車両に乗り込んでいた。何があるのだろうと気になる。気になることといえば他にもある。こちらの車両の前側の運転台に乗務員が一人乗り込んでいて、各駅のドア扱いはそこで行っていた。地方のローカル線はいまやワンマン運転が常識になっていて、よほどのこと(4両5両と増結しているとか、朝の通学時間帯のように激混みであるとか、あるいは古くからある鉄道会社で労組が合理化に対してうるさいとか)がない限り一列車に乗務員が沢山乗り込むことはない。今も件の乗務員は運転台の椅子に座って寒そうに貧乏ゆすりをしている。林を抜けると鷹巣からは初めてになる沿線最初の街、合川に到着する。ここで鷹巣行の列車と交換する。古びた駅舎、雪に埋もれた駅構内、そして乗り込んでくる乗客たち。車両も運転方式も経営母体もすべて変わった現在でも、ひとが駅に集い、列車に乗りそして降りてゆくという行動様式は変わらない。行き違いの列車が発車したあと、こちらの車窓からちらりと見た駅舎の窓ガラス越しに硬券をてんこ盛りにした改札機が見えた。駅長がこちらの列車を見送っている。ここからは阿仁川沿いをひたすら上流まで辿ってゆくことになる。この線路が国鉄のものだった当時の「阿仁合線」の名は沿線の、阿仁川沿いにある主要都市である阿仁合にちなんだものだった。

次の米内沢までが昭和の始めに開通した区間である。林業王国であった秋田県の山野には戦前から多くの森林鉄道網が形成され、それら山奥で伐採された木材は古くは大きな川を、後には伸びてきた鉄道によって輸送されていったものと思われる。人跡疎らな深い山を突っ切って秋田県内陸部を南北に結ぶ鉄道が計画されたのも林業輸送が主要な目的だったと思われる。一方、東北の地勢が把握できるほどの縮尺の地図を開いて、北の青森から南に奥羽本線、秋田内陸縦貫鉄道、田沢湖線、ふたたび奥羽本線と視線を辿らせてみてほしい。そこには東北の西海岸沿いをつなぐ奥羽〜羽越線からなる日本海縦貫線、東海岸の主要都市を結ぶ東北本線、八戸からさらに太平洋岸を八戸線?三陸線とむすぶ最東端のルートに加えていま一つ、奥羽山地の鞍部を辿るように南へとむかうもう一つのラインが見えてこないだろうか。そう、東北を自然に(つまり鉄道が通せるような、という意味)縦貫するルートは実は4ルートある。今、2両編成のディーゼルカーが辿る阿仁川沿いの細い鉄路は、東京から海岸沿いを一度も経由せずに鉄路で青森まで到達することができる唯一のルートなのである。阿仁合線が建設されるようになった経緯はこういった、いうなれば国防上の要請があったのではないかと想像される。奥羽本線じたい、日露戦争にともなう日本海側への軍事輸送路線として急ピッチで建設された路線であることはよく知られていると思う(半ば強制収用のような形で鉄道用地の買収が行われた結果、平野部での奥羽本線の敷設ルートはおどろくほど直線的なものになった。これが近年、新在直通化にともなう高速走行に少なからず寄することになったのは歴史の奇というべきだろうか)。奥羽本線上の主要都市であり、軍港でもある秋田を迂回するルートも当然模索された。鷹ノ巣〜角館をむすぶ「鷹角線」の建設計画が決定したのは大正11年のことだ。現在の主要幹線はあらかた開通し、全国的に地方鉄道敷設の機運が高まっていた時期である。

さて、さきに開いた地図をもう一度見直してほしい。現在の奥羽本線は山形県内陸南部の古都米沢から板谷峠を越えて福島で東北本線に接続しているが、米沢から南西に伸びて福島県の古都喜多方に達する峠越えの道路の存在に気づくと思う。大正11年に制定され、鷹角線の建設もその中に盛りこまれている鉄道敷設法によれば、この区間にも鉄道が敷設されることになっていた。喜多方から南は会津若松、会津田島を経て栃木県今市までの「野岩羽線」(下野と岩代と羽前をむすぶの意)の建設が計画されていた。会津若松より以南は紆余曲折を経て現在は会津鉄道および野岩鉄道、東武鉄道鬼怒川線からなる「会津鬼怒川線」として運営されている(野岩鉄道の名前がかつての「野岩羽線」構想をそのまま引き継いでいることは明白だろう)が、他方喜多方から北上して熱塩まで開通していた国鉄日中線は戦後は後延伸工事も行われず、国鉄日中線のまま廃止されてしまった。もし野岩羽線がなんらかの形ででも全線にわたって開通していたら、関東地方の今市から藤原、田島、会津若松、喜多方、米沢を経て山形、新庄、大曲、角館、阿仁合、鷹巣、大館、弘前を経て青森に至る鉄路が存在したことになる。航空機が戦争の主役になる以前、大艦巨砲主義がまかり通っていた当時の軍事国家大日本帝国にとって艦砲射撃を受けにくいルートとして期待の星であったはずのこの「四番目のおくのほそ道」は戦後には当然その必然性を失い、モータリゼーションおよび林業の衰退とともにしだいに、その必要性を主張するのは沿線住民だけ、という状況になっていった。そんな中で阿仁合線は昭和38年に比立内まで開通し、南側の角館線は角館を通る田沢湖線の全通にあわせるように昭和45年に松葉までが開業した。高度経済成長時代であったこの頃は、林業の中心地から工業都市へと変貌を遂げつつあった秋田を迂回するルートとして鷹角線の建設が推進されていたのではないかと想像する。昭和40年代の鉄道貨物輸送のウェイトは今日のそれと比較にならないほど大きなものであり、従って工業都市秋田の逼迫する貨物輸送をなんらかの形でバイパスする必然性はたしかに存在した。さて、そんな状況は台頭してきた反体制の運動と第一次オイルショックによって一転する。多発した国鉄のストライキによって鉄道貨物輸送への信頼は失われた。景気低迷が輸送業界の過当競争を招いた。気がついたときにはモノを、鉄道を使って、モノを消費してくれる場所まで輸送するために鉄道を利用する必然性はどこにもなかった。国鉄再建法によって鷹角線の建設は中止され、すでに開通していた阿仁合、角館の両線は不採算な特定地方交通線として廃止対象路線となった。全線が開通していなければそもそもの存在意義が存在しなかった鷹角線は「そもそも存在意義がない路線」とされ、地元との協議を経て廃止されるだけの運命であると位置づけられたのである。

だが、そんな見方はしょせん、都会人の思い込みである。鉄道を「都市(自分が住んでいる場所)」と「都市(自分が住むことができる場所)」との間をむすぶもの、「都市(自分が住んでいる場所)」と「都市(自分を守ってくれる軍港があるところ)」との間をむすぶもの、「都市(自分が住んでいる場所)」と「都市(自分が住んでいるのと同じようなどこか)」をむすぶもの、として考える限り、関東と東北、北海道をむすぶ「第四の」おくのほそ道なんて必要ではないから。必要なのは最短ルート、最速ルート、最廉ルートだけだ。そしてその経路上にあるすべての都市、すべての事象、すべての風景はたんに「無駄なもの」だ。そしてそんな「無駄」の名のもとに、都会以外のすべての場所は切り捨てられていった。都会の、端的にいえば当時の国鉄を運営していた人々にとって当時年間660億の赤字をたれ流す、東海道本線の年間の赤字額が1300億であった当時において、そんな赤字ローカル線をあっさり切り捨てるという施策は理にかなったものだった。さて、そんな思い込みは沿線の住民にとってはどう受容されたか。結論は今、大判の時刻表の東北地方のページを見れば判然とする。あるときは血税を注がれ、そして日本国という大きな波に翻弄されてきた二本の線路は両線の第三セクター移管から2年後の1988年にひとつに結ばれ、いまも秋田県内陸部を文字どおり縦貫している。沿線に大都市すら持たない、経営合理化を重ねた今日でもなお県と地元自治体の財政負担でありつづける、資本主義的に数字に還元して見れば無意味でしかない時代遅れの交通機関、秋田内陸縦貫鉄道。二条のレールが雪の中を辿ってゆく秋田県内陸部の、森吉山のふところに抱かれた深い阿仁の谷はそして、もしここに鉄道が通っていなければ私の目に触れることはおそらく絶対になかっただろう、春がきてなお雪深い山村の風景だった。

鉄道とはそもそも何であるのか、という内省をはらみつつ列車は阿仁前田に到着する。ぐねぐねと阿仁川沿いに辿ってきた線路がカーブした先、谷沿いの小さな町に線路が突っ込むと駅がある。一段高いところを通る線路から近づいてくる町の風景を眺めるアングルは、町をなんだかとてもいいところのように見せてくれるから好きだ。また日がさしてきていて、ここで交換待ちをすると放送が入る。ここも林業の町で、かつてはここから森林鉄道が森吉の山深くまで伸びていたという。駅の山側は今でも製材所の敷地だ。反対側には大きな建物がある。駅舎を兼ねた自治体の複合施設のようだ。前の方の車両を覗こうとすると入口ドアに内側から「貸切」の紙が張られている。車内はお座敷車になっていて、年輩の乗客たちが小さなこたつを囲んでにぎわいでいる。鉄道会社主催のツアーのようだった。どこまで行くのだろうか。硬券でも買おうと浅く雪の積もるホームで煙草を吸いながら暇している例の乗務員に切符買ってきていいですか?慌てて乗り継いだんでまだ持ってないんですが、というとまだ若そうな乗務員はあーすいません、後で売りにいきますっ、などとと言う。できれば一日フリーきっぷのような乗り降り自由なきっぷを手に入れ、貧乏人のケチケチ旅行で倹約した分を最大限秋田内陸に振り込んで増収に貢献しようと思っていたのだが、「角館まで片道ですね?」とか念を押されてしまった以上もうどうしようもないので、これはまた来るしかない(今度は硬券買いまくってやらねば、という意味)、と思いながら車内に戻る。いつのまにか空は薄い雲を残して晴れ上がっていた。雪焼けがまぶしい。

阿仁川に合流する小さな川を築堤と鉄橋で乗り越え、河岸段丘の田んぼの中を二条のレールが光っている。結構な積雪量で、木立の中に蹲る集落から少し離れたところにある無人駅などはホーム上に小さな待合室がそこになければ白い風景の中に埋もれて、列車がそこに止まるまでそうと気づかない。乗る人もいないそんな駅もホームはきちんと除雪されている。除雪機が均した箒で掃いたような跡だけがホーム上に残っていて足跡ひとつ見あたらない駅もあった。除雪機と除雪した人はどうやって戻っていったのだろうと思う。小さな集落が近づくごとにそんな光景が現れ、そんな小駅の一つ小渕(こぶち)駅の駅名標にはローマ字表記で「COBUCHI」とあった。駅名標でこのパターンは始めて見た気がする。じき沿線内最大の町であり、車両基地もある阿仁合だ。けわしさも増した川べりの崖を這うように二両編成の列車が行く。どうしても逃げ場がなくなるとトンネルに入る。地盤が緩い場所があるのだろうか、徐行している場所も多かった。視界が開けると雪に埋もれた引揚線に雪をかぶった優等用らしき車両が転がしてあって、その先に阿仁合の駅がある。ここも大きな駅舎がある。駅舎と反対側にはディーゼルカーが何両も並んでいる。大きな集落だけあって、前の方の貸切車に乗るための老人たちがホームを黒く埋めていた。ずいぶんなにぎわいだ。ほどなく上り列車が到着するのと入れ替わりに発車。

山のふところに抱かれて阿仁川沿いの狭い平地が続いている風景から、けわしい山肌を削って流れる阿仁川の断崖に国道と線路がへばりつき、たまに平地が現れると駅があるという風景になる。あいかわらず、きちんと除雪の手の入った、しかし人気のない無人駅で気が向いたときにだけ乗降客がある。陽がだんだん高くなってきて雪の照り返しががまぶしくなってきた。ふいとカーブして線路は阿仁川を渡る。隣に一段高く国道の橋が赤く伸びている。ここから先は対岸に渡った方がいいということらしい。冬の川の流れはものすごく、というわけでもないが比較的澄んでいた。植林の杉林を快調に抜けると国道が山側にやってきていて、笑内(おかしない)駅だ。もちろん無人駅だが、面白い名前の駅として知られる。駅のすぐ手前に国道の分岐青看板がある。ここで山の方へ別れてゆく林道はトンネルを抜けて根子(ねっこ)という山あいの集落に続いている。「根子番楽」という無形文化財をはじめ、特徴のある文化を持っている山間集落だ。空はいつのまにかすっかり澄み渡っているが、南のほうの山あいには雪雲が渦まいている。いよいよ狭くなった谷あいを行く線路は何度かトンネルに入り、少し開けた場所に出たところが比立内(ひたちない)だ。列車交換のために少し停まる。

あたりはいちめんの雪原で、駅舎のがわに転々と集落、小さな集材所が続いていたりするだけだ。国鉄時代に終点になっただけのことはあり、雪に埋もれた小さな駅はそれでもまだここで一区切り、という雰囲気を残しているようにも思える。もっともそんな印象はあくまで、この線の生い立ちを知る人のものかもしれない。大半の東海道本線の乗客はたとえば横浜や国府津や大府、関ヶ原や米原などで「区切り」を感じたりはしないだろう。山陽新幹線の岡山駅はかつての終着駅の風情を残してなどいない。ましてや、いつだって存亡の瀬戸際にあるような弱小ローカル線のただの交換駅にかつての終点の面影を求めて何らかの感傷に浸ろうなんて人間は鉄道を待ちわびていた地元の人たちや鉄道会社の社員、一部の鉄道ファンくらいだろうと思う。ホームの一番はずれに立ってみる。出発信号機がつっ立ってる先に白くまぶしい原っぱが広がり、ぎん色に輝く線路が山ふところに吸い込まれてゆくだけだ。線路はここからしばらく東に阿仁川の支流である打当川を遡るルートをとる。いちめんの陽光の向こうから交換列車がやってきた。角館発の3番列車だ。

発車するとすぐ斜めの鉄橋で阿仁川の本流を渡り、じきに今日始めてというくらい長いトンネルに入る。山がせり出している区間をショートカットするのだ。昭和のおわりになって全通した新線の面目躍如であるが、川沿いの崖っぷちの雪庇の下を制限15kmでとろとろ走ったりする区間を持つ路線とは思えない。新しく開通した山深い峠越えの区間は鉄道の速達性が発揮できても、乗客の多い里寄りはスピードアップできない旧態然とした区間が多いのは全国のローカル線のかかえる根本的な問題の一つである。先日廃止になった広島県の可部線など、最も本数の少ない末端区間がここのような高規格路線、そこそこ人口も多い手前の区間はときに森林鉄道と見まごう、川沿いのがけっぷちに張りつく桟道をディーゼルカーが徐行するような路線だった。手元に200億ほどあればそういった陋悪な部分を軒並みトンネルによるショートカットで改良し、並行する高速道路に伍することができる路線にできたのにと思うと少し残念である。どこかの田舎町にバイパス一本引く程度の金額であり、費用対効果の面ではけっして無茶な話ではないと思うのだが。奥阿仁、阿仁マタギと山深くなってきたことを伺わせる地名が続く。駅も高い築堤脇に鉄骨組のホームを取り付けましたといった機能的かつ味気ない構造のものだ。風景はどこまでも続く山なみのふところに肩を寄せあうように点々と家が並んでいるだけだというのに、いい天気のおかげでずいぶんな山奥という気はしない。それからあっけなく長いトンネルの連続で峠を越える。昨日足止めを喰らった角館をとり巻く盆地につながる桧木内川の流域に入り、そして空はときおり雪が散らつくほどに曇っていた。地質が違うのだろう、人里からのアプローチが短い割に山肌はけわしい。ここから東に山一つ越えると田沢湖のある田沢町である。

斜め前のボックスでおばちゃん三人連れが話し込んでいる。そろそろ孫が小学生、といったくらいのお歳に見える。同じ駅で乗り込んできたわけではなく、多分示し合わせて同じ列車で角館に出ようという友達同士なのだと思う。勾配を下る列車はエンジン音も静かで、雪の舞う車窓を眺めていると彼女たちの話し声が耳に入ってくる。掛け値なしで全くわからない。結構はっきりした、えてして都会人が田舎の喋りかたを馬鹿にするときに引きあいに出すようなぼそぼそと聞こえる不明瞭な喋りかたでは全くなく、進行方向に背をむけて座っているどちらかというと小柄なおばちゃんは車内にはっきりと聞き取れるほど活舌のよい(やかましい、ともいう)話しかたなのははっきりわかるのに、「…ま」とか「…ね」とか、mやnやngにa、o、uが加わる音素が少し多そうだ、という以外、何を喋っているのか全くわからない。日本のあちこちを旅行してきた身にとっては、たいていは出てくる単語の切れ端で何の話をしているのか(昔を懐かしんでるのかとか、嫁が気がきかないだとか、誰かさんが死んだとか)わかるのに、それすらわからないのは始めての経験だった。まるで外国に来たみたいであり、面白いので角館につくまでずっと彼女たちの会話を聴いていた。面白いことに、彼女たちは車掌が通りがかった際には「ふつうにわかる」訛りの強い喋りかたで切符を買っていた。多分ここで私が標準語で彼女たちに何か話しかけたら、彼女たちはいずれでもない、標準語に近い単語とイントネーションでそれに答えてくれるだろうと思う。言葉とはつまり、そういうものだ。言い替えれば、日本が琉球語やアイヌ語を除けば単一言語の国家だなんていう浅薄な言説は19世紀的国民国家的プロパガンダのエピゴーネンにのみ支持されるような嘘八百の絵空事だと思う。彼女たちが今仲間うちで喋っている言葉と標準語を同じ言語でくくることができるなどというのは官僚主義的な小役人の発想であって、古代ゲール語と現代米語を同じ言語だと言ってのけるのと同じ暴挙であろうと思う。あいかわらず雪がちらつく角館に列車は定刻に到着した。斜め前のおばちゃんたちも、前の車両の団体客たちもわいわい騒ぎながら内陸線の改札を抜けてゆく。駅前では旗を持った内陸線のツアーコンダクターが降りた乗客たちを集めていた。内陸線主催の角館観光&買いものツアーだったようだ。残りの乗客はそのまま「こまち」を待つためにJRの駅舎の方にむかう。

お腹がすいたので昨日もさんざ世話になったNEWDAYSでおにぎりなどを買い込み、待つのは次発の大曲行である。昨日夜のしじまの中に乗り通してしまった角館―大曲間を明るい時に復習できることになる。角館の駅前は昨日の雪も歩道まで除雪され、車力小屋はまだ開いていなかった。内陸線のきっぷを買おうと思ったが、窓口は次の列車が到着するまで閉まっていた。じきに大曲行の発車時間になる。車内は休日らしく、秋田に出る高校生が目立つ。旅行者は浮いた存在だ。角館盆地から秋北平野につづく風景は雪雲が覆っているにもかかわらず空気は澄んでいる。羽後長野の駅で見えていた煌々としたエリアは大規模ショッピングセンターだったとわかる。もう少し駅に近接して作ってくれていれば「こまち」も停車できるような大きな駅になったのに、と思う。もしそうと知っていれば、10分も停車している間に弁当でも買えたと思う。こういう利便性には多分、車に乗っていないと気づかない。逆に、全国を車だけで移動していたとしたら、さきの内陸線でおばちゃんたちが喋っていたような言葉には絶対に気づけないと思う。さて、ない時間と金を捻出してまで貧乏旅行する自分のような根っからの旅好きにとって、はたしてどちらが「旅行」といえるだろうか。答えはむろん後者である。なので、こんなところに馬鹿げたショッピングセンターなんて作りおって、そんな金があったら角館の駅前商店街にもっと投資せんかいなどと車窓から罵ってみる。

羽後四ツ屋の駅手前の左手には巨大な農業倉庫があり、壁面にたわわな稲穂を手にした萌えキャラが描かれているのに気づいたりしながら大曲着。昨日と同様、いちめんの田んぼの中に固まった建物群が近づいてくる、ある意味、街らしい街といえる。さっきまで濁っていた上空は雲の切れ端から太陽を覗かせていた。融雪パイプからの水のおかげで赤茶けている駅前道路を渡って銀行でお金を下ろしたりしてからホームで今度は新庄行の快速を待つ。田沢湖線全線の風景をこの目で確認したあとは帰るだけである。昨日窓からの明りで気づいた架線柱の「院内系」というプレートに並んで、予想どおり田沢湖線のほうの架線には同様に「田沢系」とあった。饋電系統の区分なことはほぼ明らかだが、わざわざでっかいプレートに明記してあるのははじめて見る。何か理由があるのだろうか。

いつものように混雑した新庄行の快速で雄勝峠を越え、新庄からは陸羽東線で太平洋側に抜ける。横手のあたりでまた降りはじめた雪は峠越えをする列車の車窓をまたすっかり冬景色に戻していた。この快速に乗るのはもう何度目だろうか、新庄で「つばさ」や後発の山形行の電車に座るためにホームを走る乗客たちを横目に今回も鳴子温泉行のディーゼルカーに乗り換え、鳴子温泉駅の観光案内所で近場の共同浴場を教えてもらい、早大の実習でのボーリングで湧いたという早稲田桟敷湯という浴場でひと風呂浴び、以前も弁当を買ったことがある惣菜屋でお好みで弁当を詰めてもらって、仙台や東京に戻る湯治客でにぎわう小牛田行に乗り継いだ。惣菜屋のおばちゃんが「温泉入ってきたんでしょう」なんて言うのでここは乗り換えの合間に暇がつぶせていいですねえ、なんて答えたのだが、来週のダイヤ改正で新庄発の列車の時刻がくり下がり、鳴子温泉での乗り継ぎ時間はほとんどなくなってしまうことになっている。今度はもっとゆっくり来てもいいかな、と思った。向うの席では親子連れがはしゃいでいる。彼らは仙台まで戻るのかな、なんて思いながら、分水嶺を越えていつのまにか晴れわたった風景を眺め、山の幸豊かな弁当に手をつけた。
2004年3月8日(月) 天気:はれ
びよらですか

「一味しょうゆ味」「コンソメ味」。仕事場の自販機に入っていたものです。あれ、ナポリタンってのもあるんだ。一味しょうゆから食べてみます。

…「みたらしだんごに唐辛子をかけたような」。辛さと塩辛さのせいで生地の甘みが余計引き立つというものに仕上がっています。プロコフィエフの管弦楽曲か何かのよう。その甘みをバックに唐辛子がショッキングピンクの主張をなしています。これ開発した奴、たんに辛いのが好きだろ。もしかして最近は毎食暴君ハバネロだったりするだろ。次、コンソメ味。生地にも見え隠れする黒こしょうが無駄にスパイシーです。加えて、パネトーネ生地本来の風味も引き立てられています。甘いのの陰に隠れてしまっているのか、コンソメの味はしませんでした。特に味の特徴がないのに無駄にこってりしたものを食べた印象です。

結論:ヘン。
教訓:料理において、入れるとヘンだと直感的にわかるものは入れてはならない。
2004年3月9日(火) 天気:はれ
土曜日の分を追記中。

○| ̄|_

「コンビニに駅弁が登場 スリーエフが期間限定で販売 」。駅弁はいいですから(だいたい何で東海道線沿線なんかからチョイスするかね?駅弁といえば水戸や高崎と相場が決まっておろう)、我孫子駅の弥生軒の唐揚げうどん&そばの商品化をお願いします。
2004年3月10日(水) 天気:あつ
週末のことが嘘のように思える陽気です。しこしこと土曜日の分を書き足し中。
2004年3月11日(木) 天気:土埃
仕事場の隣には小学校がありますが、俺が市長になったら絶対スプリンクラーを設置してやると固く決心しました。

_| ̄|○

同じグループのドイツからきた人に「今週末から『スーモア』が始まるだろう」なんて訊かれて何かと思ったら相撲のことでした。勝手にラテン語にするんじゃない。
2004年3月12日(金) 天気:くもり
今日くらいの天気が一番過ごしやすいです。

体と目に悪そうな自己治療
2004年3月13日(土) 天気:いい
東京でメロスの演奏会でした。モーツァルトのは三楽章で三浦さんと藤村さんが息の合った走りを見せていたりといろいろな意味で楽しかったです(ソロがトゥッティ部まで全部弾くとは思わなかった…)。聞いていたのが前の方だったからかな、紀尾井ホールくらいのサイズならオケ全体の音がもっと柔らかくてもぜんぜんおっけーかも(もちろんベートーヴェンでも、という意味)。

今シーズンはもう遠出ができないと思うので18きっぷを使って行きました。ついでなんで五日市線往復して八高南線の103-3500を堪能してから実家へ。一日分の元は取れたかと。
2004年3月14日(日) 天気:はれ
親父とお昼を食べに行くついでに小学校時代のテリトリーを散歩しました。台地の上を走る鉄道駅とその周辺に張りつく団地、それらを取り囲む鬱蒼とした林と畑、台地が終わるところから江戸川の堤防までずっと続く田んぼが私が生まれ育った場所です。ずいぶん離れていると思ってた場所も大人になって久しぶりに歩いてみるとびっくりするほど近かったり。もっとも、鬱蒼とした森だったところも今は平板な住宅地になっていたりするので、印象が異なってくるのは致し方ないことかもしれません。あの頃の「遠い遠いところまできた」という感覚は今、いったいどこまで行けば味わえるものなのでしょう。今の日本にはそんな場所はもうないんだと思います。
2004年3月15日(月) 天気:はれ
ヴァイオリンの裏板が剥がれはじめているのを発見しました。胴の左肩の、手がよく当たる場所です。前も剥がれて直してもらった同じ場所です。えーん怖いよう。
2004年3月16日(火) 天気:はれ
インターネット依存症からの回復。「インターネットを減らそう!」というサブタイトルがなんかアレなのはともかく。このサイトじたいすでにインターネット上で公開されているものですし、これを探し出して読んで依存症を修正することができる人はすでにインターネットをちゃんと「使いこなせて」いると思います。そういうのは依存症とは呼ばない気がします。

※何でもかんでも「依存症」のレッテルを貼って解決した気になるのを「依存症依存症」と呼びたいですな。←皮肉依存症
2004年3月17日(水) 天気:はれ
3月6日のぶんを書き終えました。引続き書きはじめた翌日はもう少し短くて済むかなと思います。

冬が終わってしまいました。砂じんあらしで筑波山が見えません。

のりのりバスの中で大学オケの後輩とばったり。つい最近結婚してつくばに住み始めたそうで、式は2月29日だったそうです。結婚記念日が4年に一回で済むとかいうことなんでしょうか(違
2004年3月18日(木) 天気:あめ
エキストラ用の楽譜を送り出して一安心。発表用OHPさつさつ、と行きたいところですが。

窪塚洋介、大麻礼賛して会場あ然。「誰が何と言おうと市の中心は野幌地区だ」と江別市在住の男性は怒りをあらわにしていた。
※なんでもありませんネタがないんです意味不明ですいません
2004年3月19日(金) 天気:はれ
高杉親知の日本語内省記が面白いです。

筑波大学管弦楽団の卒業演奏会でした。榊原さんおつかれさまでした。新作も楽しかったです。オケのほうですが、対向配置でベースが上手ってのはうーん、どうかねえといったところ。トロンボーンが下手(しもて)でベタ一枚でしたがあれも吹き心地はどうだったんでしょうか。色々ありますけどとりあえず日記ではこのへんで。
2004年3月20日(土) 天気:あめゆき
合宿で行った石岡は結局ほとんど積もりませんでしたが、行きがけに駅に重たい雪を積もらせた車がいたり、バスターミナル(屋内)に雪が落ちていたりと、柿岡盆地の方はそれなりに降ったみたいです。

夜は飲み会であり、某嬢の職場での数々の武勇伝などを聞きながら楽しく過ごします。あとは高層気象観測用の気球の上昇速度が一定という話とか、グリーン関数がわからんという話とか。オケの飲み会とは思えません(いつものことだ)
2004年3月21日(日) 天気:はれ
ショスタコの5番の練習をすることになっているのに、9番の第一楽章みたいないい天気。

練習がはねた後、高浜まで歩く途中で愛宕山古墳と舟塚山古墳に行ってみました。合宿所から高浜街道を歩いていった台地のつきるあたりです。愛宕山古墳は小さな板金屋の裏にあります。古墳に登ると板金屋の裏庭がまる見えなので住んでいる人はアレだろうなと思います。周濠の跡地は畑や件の板金屋になっていて、円墳の頂上は榊の薮の中に石彫りの何か模様が彫ってあるのが置いてあるだけです。反対側は盗掘の跡なのか火山の噴火口のようにえぐれていました。方墳部は芝草に覆われているだけで、何か石があると思って見てみたら看板か何かを立てた跡のコンクリでした。段築というのでしょうか、段々になっている構造が残っています。道路をはさんで反対側を少し行ったところが舟塚山古墳です。ここは円墳部に登るところに小さなお社が設けてあります。説明の看板の隣に天保年間の文字のある何かの石碑がありましたが、社がいつからあるのかはわかりません。石鳥居を寄進した旨の碑に昭和の始めの年号が読めます。みんな五円づつ寄付していました。円タク5回分というかんじでしょうか。入ってすぐの建物は賽銭箱もなく、中を覗くと皇太子殿下御成婚の看板が放置してあるだけでがらんどうです。その裏手に並んで小さな祠が二つあり、そちらが古くからの本物のようでした。その左脇から登頂できます。多少ぼこついた頂上には三角点があるだけで、前方部にかけてなだらかな芝草の肌が広がっていました。線香のにおいがすると思ったら古墳の一部が切り崩されて墓地になっていました。向こうの畑の中に陪冢(ばいちょう)と呼ばれる副古墳が見えます。入口の看板によるとそういう陪冢がこのあたりにはいくつもあるみたいです。地図で見ると国指定のこの古墳をちょうど突っきってバイパス道路が計画されています。何考えてんだってとこですが、周辺には遺跡を壊すバイパス道路建設反対の看板がぼかすか立っています。存分に堪能して高浜の駅に向かったら踏切を渡った所で電車が行ってしまいました。

というわけで、いかりや長介が死んだことも知らない音楽づけの週末でした。
2004年3月22日(月) 天気:あめ
エレベータに乗るときにすれ違いざま聞こえてきた会話。
「…が常磐道の終点のそばなんですよ」
「あ〜、常磐道にも終点があるんですねぇ…」
環状線か何かかと思ってたのかね君たちは。

全日本カート選手権3位 関城中の野尻君が「スカート選手権」に見えてしまい悟りを開いた人ポータル主催の何かが開催されたと思ってしまったのはここだけの秘密です。

南阿蘇水の生まれる里白水高原(違)(takotさんの自堕落記より)。

津(やっぱり違)(headさんのエロチック街道より)。
2004年3月23日(火) 天気:あめ→くもり
寒いですが、これくらい寒いのがちょうどいい人にとってはいい天気ですので、いい天気です。気温にかんしては。

…晴れてくれないと洗濯できないよう。
2004年3月24日(水) 天気:はれ→くもり→あめ→くもり(イラクでは爆弾)
同じ1万という人数でもずいぶんと違うもんだね。サンプル数が多いから正しい、というウリで何か判断を押しつけようという発想は pax americkana のそれと同じだと言えなくもない。

時々ネタにする上に悪口まで言うわけだが、「○○度チェック」といったQ&A式の性格判断みたいのよりタロット占いなんかのほうが好きだし、信用できると思う。この場合の信用できるは占いの結果が、ではなくて、占う側の誠実さを、だ。けだし作為的でしかない選択肢を辿らせてはいあなたはこれこれです、なんて言われるより、はなっから根拠なんてない物言いのほうがずっと正直だと思う。だいたい、ヴァイスコープにあれこれ恋愛アドヴァイスされるのと神社のおみくじで恋愛成就って出てくるのとどっちが嬉しいかね。
2004年3月25日(木) 天気:くもり
ラフマニノフのヴォカリーズのおわりの部分は「白鳥は悲しからずや海の青空の青にも染まず漂ふ」(牧水)という詩と同じ風景が見える。それを見ている主体を地上に残して、白鳥はまるで一片のちぎれ雲のように青空に消えていく。この詩(うた=曲)で、ほんとうに染まることができないでいるのはじつは牧水じしんであり、クーセヴィツキーに振られた(たぶんそうだろうと筆者が勝手に思っているだけだが)ラフマニノフじしんでもある。

いやね、ショスタコの5番の3楽章、[93]からの部分がヴォカリーズになんか似てるな(精神として)と思ったりしたものだから。5番というとフィナーレの「強制された喜び」がどうの、といった言及ばかりが目につくけれど、作曲者は3楽章ではいったいどんなことを描きたかったのかな、と思う。
2004年3月26日(金) 天気:はれ
今朝の雨は何だったんだよぅ…
※仕事場に傘を忘れて帰りそうだと言いたいらしい

帽子にガウン、東京大で卒業式。一着3000円でレンタルだそうです。こういうのはかっこいいので是非もっと普及していただきたく。
2004年3月27日(土) 天気:はれてネタがない
「晴天はいいねえ。リリンの生み出した洗濯の極みだよ」

「着れる洋服が増えた!何故だ!」「洗濯したからさ」

「認めたくないものだな、若さ故の洗濯するタイミングの過ちというものを」

「雨が上がって、洗濯よ!」

「お兄ちゃん、(洗濯が)大好き!」

「脱水槽に手を突っ込みながら、積年の疑問を考えていた。
それは、何故洗剤のつぶつぶに青いのが混ざっているかという問いである」

「(天気図を)読めないと、(洗濯をするのは)難しい」
2004年3月28日(日) 天気:はれ
東京に出て散髪などを行ったあと、秋葉のMei:lishでしゃーみんの面々に誕生日を祝って頂きました。「はじめて来たが、意外と普通の店だった」などという感想が聞かれました。馬車道も逸般的でない方々には「パスタのおいしい店」として知られていることを考えれば別段意外なことではありますまい。それから店々を物色しつつ今度はキュアメイドカフェでまた無駄話に花を咲かせます。学会を途中ですっぽかしてきた方とかこれから別件で他人と会われる方、薬が効いて眠くなってきてしまった方などとお別れして新宿のタワレコで何枚か仕入れて帰宅。
2004年3月29日(月) 天気:はれ
春ボケしてしまうので暖かすぎだと思います。

一全音の音程間隔の周波数比の数値をここで見るとは思わなんだ

ヽ(`Д´)ノ
2004年3月30日(火) 天気:くもり
冬眠中に「ガマの油」搾取 ロシア極東で大量密輸を摘発。本当にがまから油採れるんですか。

雨降ってきました。楽器の調子が。

はよ寝んといかんのに明日の準備をしていたらなんとなく目が冴えてきたりして困ったものです。
2004年3月31日(水) 天気:はれ?くもり?
盛大に雨が降るという予報じゃなかったんですか。

某工大で某発表日。はじめて行きましたが、狭かったです。とゆったら某浦某業大の人にもっと狭いキャンパスもあるのであると力説されました。いや、わかってて言ってみただけなんですが、だって敷地が旧図情大くらいしかないじゃん…。

[previous month] [index] [next month] [recent] [Top]

n-odoriko81@mail.goo.ne.jp
Akiary v.0.51+odoriko casual hack

[PR]話題の新車を無料プレゼント中:必ず当る抽選会!今すぐ応募で簡単GET