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々ゞ仝〃(日記)

2003年09月


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2003年9月1日(月) 天気:はれ
つくつくほーしが誤作動する鳴き声が聞こえてくる。
2003年9月2日(火) 天気:洗濯は乾く日和
「イリヤの空UFOの夏」は、けして終わることのない青い鳥の物語の、その序章だ。

浅羽がまるで幻視のように思い描いた「南の島」は実際には終点なんかじゃなかったんだな、と気づいたのだ。そう、夏がけして「終わる」ことのない、そこは赤道だったから。そこは軌道速度に一番近い、だから宇宙に一番近い場所だ。その先に、伊里野が帰っていった空がどこまでも続いている、はじまりの場所だ。さいはてのローカル線の行き止まりの終点で、古びた改札を出たところに見つけた外国航路のターミナルのある波止場への道案内。

浅羽はいつかそこから、宇宙に行くのだろうか。行くのだろう、と思う。何か一つのものと引き換えに、伊里野にずいぶん遅れて、かつての少年は自らの体で空を蹴って、どこまでもどこまでも遠くまで行かなければならないだろう。かつて少年が「虫」とガキくさい黄色のヘルメットカバーを投げ捨てて園原を飛び出したように、そして道と鉄路の終わりで終わったその短い逃避行を、今度はひとっ飛びに空を飛んでいくことで、校舎から一歩踏み出した足元で終わらせることで無化して、浅羽は旅の終点へとむかう。でもそこは前述したように終点ではなかった。旅の終点にはいつも榎本がいて、浅羽は彼というお釈迦様の掌の内でいつだって転がされていただけだと気づく。そう考えると、タイコンデロガ甲板での浅羽の行動は神殺しであると考えていい。「イリヤ」があまりにもその神の存在を前提とした物語であったために、小説のエピローグはただその後も、神の死後も続いていく(浅羽が一度捨てたはずの)日常描写を敷衍する以上のことはできない。がしかし、だからこそ読者は想像する。いや、しなければならない。今度浅羽が何かを捨てるとき、それは今度こそ、榎本によって終わらせられることがけしてない、どこまでもどこまでも続く浅羽じしんの旅になるのだろうということを。それが起こり得るのかは断言できない。「イリヤ」の読者の数だけ浅羽がいたとして、その全員が全員、いつか終わりのない旅に出るということはあるまい。が、だからこそ、私はそちらの物語の方を、まるで「Air」の「そら」のようにどこまでもどこまでも、消えた少女の面影を追って高く昇ってゆく浅羽の姿をこそ、おそらくけして書かれざる「イリヤ」の物語の、そのおしまいのイメージとしたいのだ。

「イリヤ」と「Air」の類似点についてはあんよさんの日記での言及に依るものです。あと、上の文章は「イリヤ」本編を構造主義的に軽くぶった切ってみてから読んでいただくとわかりやすくなるかなと。
2003年9月3日(水) 天気:どざーーーーーーーー
すごい雨がほんの一瞬、つくばの地を襲いました。

日本人は議論が苦手、と言われている割にインターネット上で結構すぐ議論(少なくとも当事者はそう認識している)が発生してしまうのは、その「日本人にとって議論と思われるもの」であるところの、つまり「我々にとっての困難な状況」に、それをふっかけた人間が逃げ込もうとしたいからなのではないか、と思う。日本人にとっては「これは議論である」と言明することがまず儀式であり、そして大抵の日本人にとってはそういった儀式を経ないかぎり自分の意見を開陳することが実はままならない。他人に対して批判を行うということに対して心理的障壁が大きいのだ。飲み屋で杯を交わさないと本音が判らない、というのと同じだ。酒に酔うことでその障壁が低くなるだろう、という了解がそこにはあるから(だから例えば、酒に弱くてすぐぐでんぐでんになった挙げ句セクハラしたりする親父に世間はなんだか甘いのだ)。つまりたいていの場合「議論になってしまいました」「あなたと議論するつもりはありませんが」「議論になることをあえて承知の上で」なんて前置きをもって語られる意見は「私は酔っています。理性のたがが外れています」と言明するのと(本来の、西洋的な意味での)議論の上ではあまり変わらない。はなから議論を回避したい、それは面倒くさい上に論破されたときに自分をどう処していいかわからないと思うとき、ひとは「酔っ払う」。そうすると周囲は(世間は)その人に対して、あたかも酔っ払いがどうしようもない存在であるのと同様に、まるでその人に何か特別なプロセスによって物が憑いたかのように、その人の日常、その人の(日本的な意味での)社会的倫理的立場から離れて、その批判を(まるで巫女の告げる神託のように)ははーそうですかそれはご無理ごもっとも、と聞いてくれる、というわけだ。そして、何か意見を主張する側は巫女になる権利をいつだって持っている。それが日本的意味での「民主主義」だ。そこには意見の主体にも、客体にも平等に、本来の、西洋的意味での「議論」なんてない。あるのはただ、ある(日常の常識からすればおかしな)観念に取り憑かれた者が神懸かり状態になって発するご神託と、それを一見畏れおののいて承る、ないしは神官(議論をふっかけられた側)の申し開きによってはじめて対話が成立するそのさまをただひれ伏して眺めていることで自らの立場に安住している無辜の一般大衆、という図式ばかりだ。

日本に民主主義が本来の意味で根づいていないのはつまるところ「本来の(欧米の)民主主義」の個々の演繹であるところの意見、個々の「こうしたい」という主張がその時点で上の段落でいう「民主主義(ないしプロ市民)という神懸かりに罹った者の発する神託」としてまず周囲に受け止められてしまっている、という、日本文化に深く根差したその構造に原因があるのだ、と最近思っている。いや、その「西洋的な意味での議論、西洋的な意味での民主主義」が日本に根づけばみんな幸せになれるというわけでは、いちがいにはいえないのだけれど。ただ、いえることは、インターネットというあり方の上にまず自然に構築できる諸々のシステムは、本来インターネットが「欧米の」発祥になるものであるが故に自然、欧米のシステムに親和するものなのだろう、ということだ。そして我々日本の人間もまたそんな、そのシステムとして外国(特に欧米)と不可分なインターネットを使いまくっているということだ。さて、例えば日本的な「議論」はそのシステムの上で、はたして今後、存在意義をそこに見出すことができるだろうか。
2003年9月4日(木) 天気:はれ
まだ暑いですが、仕事場の窓の筑波山は少し澄んで見えるようになってきています。

そんな澄んだ空の下、順調に書き書きしていたらWordごとすっ飛びました。んもう…

『シュワルツェネッガー加州知事候補に生卵』。「次はベーコンも頼む」とか言ったそうです。アメリカはやはりこうでなければ。
※茨城県知事選で卵を投げられた候補者が「次は是非納豆を」とかインタビューに答えるさまをちょっと想像しました。見果てぬ夢ですね。
2003年9月5日(金) 天気:はれ
朝から暑いです…

で、前にも書いたように仕事場は機械のためにクーラーを入れていなければなりません。というわけでものすごい勢いで寒いです。凍死するよぅ…

どんな梨なのかと思ってしまった
2003年9月6日(土) 天気:そこそこ
無伴奏組曲をゆっくりなテンポで作りなおしています(自分の中でしっくりくる音楽をゆっくりなそれに再構成しているということ)。緩徐楽章が好きになってきたらじじゐの証拠だなんて誰か言ってたけど。昔から二番のメヌエットはみんな(チェロだろうがヴィオラだろうが)速く弾きすぎだと思ってたのですが、今ではどの楽章もみんな速すぎに聞こえます。こういう気持ちになってきたのはいっつもがんがん響くところで個人練してるからかしらん?いや、あれは石造りの教会みたいな、とにかく天井が高くて残響がすごいところ(ノバのホワイエみたいなところ)で弾くのを想定して書いている音楽だ、と痛切に感じているんですけど。

バッハの音楽は「和音の妙」であると言って過言ではありません。この意味でバッハは古典派すら飛び越して、ロマン派に片足を突っ込んでいると言いきってもいい。すべてがすべてそうだ、とは言いませんが、少なくとも広く知られている器楽曲に関してはほとんどが「和声部と旋律部が渾然一体となった至福の境地」のものであると思います。例えば祥子さまが新入生歓迎会で弾いたグノーのアヴェマリアですが、あれはよく知られているようにバッハの平均律第一巻第一番のプレリュードをそっくりそのまま「伴奏」に、そこに聖母マリアを讃える古くからの歌詞をつけた旋律を乗せただけ、というものです。例えば運命の悪戯によってかりに静さまが二年生の時点で山百合会幹部の関係者になったりしていたら、祐巳がそれを聞いて感動したマリア祭の後の例の余興は祥子さまがバッハの平均律第一巻第一番のプレリュードを、同時に静さまがそれに「乗せて」グノーのアヴェマリアのメロディーを歌う、というものになっていたはずです。二人の音楽の方向性が合っていれば、それで曲になるわけですね。これは別にグノーが小賢しい、悪い言い方をすればいかにも頭で考えましたみたいなメロディーをバッハの有名曲に牽牛付会したわけでは断じてありません。グノーのアヴェマリアを知っている方ならあのメロディーはじつに自然で、素直で、誰の心にも幸福で、静穏に響くものだ、ということをご存知でしょう。グノーが上に書いたようなことを、バッハの既存の器楽曲に旋律をつけようなどと思った理由はだからつまるところ、バッハの平均律第一巻第一番のプレリュードという音楽が最初に書いた「和音の妙」そのものだったから、という一点に集約されます。ロマン派のすべての音楽が結局、変幻自在にその色姿形を変える和音(ないし伴奏、ないし管弦楽法に代表される楽器法)の上に自由に羽ばたく人間精神としての旋律、という構造に集約されるとすればバッハは後世のために、今議論しているアヴェマリアであればロマン派の作曲家であるグノーのために、その下地を準備してのけた作曲家である、とまで言ってしまっていい。

がんがん響く場所だと、和音はすぐに消えてくれません。今しがた鳴らされた音符たちはあたりにまだ漂っていて、楽譜のその先に続く音楽の流れを未練がましく見守っているようにさえ思えます。そこに新たな、和声法的に種類の違う音符を割り込ませるのは結構エントロピーの高い行為になります。楽器自体がそういった響きを創り出すことが容易なチェロ、ないし楽器が創り出した響きが周囲に容易に共鳴しやすいヴァイオリンであれば、そういった「以前に創り出した響き」を制御するのは簡単なことかもしれません。チェロの場合は楽器本体から出てくる「響き」の部分の音量が結構大きく、また、ヴァイオリンの場合は楽器本体が小さいので周囲に放出される音のエネルギーも小さく、そこで奏者が新たに一次的な音のエネルギーを与えてやると「響き」はたいてい、瞬時にリセットされてしまいます。さて、ヴィオラの場合は「響き」じたいがえてして奏者の手にままなりません。半端に大きいし、半端に人の耳に届きにくい音域だし、半端に楽器自体が響かない。そうするとしぜん、ヴィオラ奏者がその場に今、響いている和声に気を使って演奏をしようとするとそれはその場の音響特性に依存するものになります。デッドな環境ではとにかく弓圧を上げて音量を確保しないといけません。がんがん響く場所では次に引き出したい和音がその場で今、鳴っている和音とぶつかって不協和にならないようなテンポやルバート、アゴギグを考えたいものです。もちろんそこに音楽全体の流れも介入してきますから、ヴィオラで「和音」の「妙」が卓越するような音楽を演奏するときにはしぜん、それはテンポがゆっくりなものになるのだろう、と思っています。
2003年9月7日(日) 天気:花冷え
と書いたのは元の意味を知らないわけじゃない。今の季節は野の花が奇麗だから。

がきんちょオケの練習支援活動に出撃しようとしたらお祭り騒ぎ(っていうか実際に祭りだったんだがね)に巻き込まれて往生しました。本会場の通りの入り口をトンネルでショートカットする土浦までの直行便以外はもういつバスがきたものやら、という状況だったのです。みんな車で来るからです。昨日起きたひき逃げ事件なんてのも車があるからいけないのです。茨城県内は自家用車使用禁止にしましょう(ぉ
2003年9月8日(月) 天気:くもり
休日に片道一本だけ、という田舎の路線バスにそれでも一般の利用客がちらほら乗っている、という不可解な夢を見ました。

えと、手毬飴って何でしょう。ぐぐると最初にかつさんの日記が。
2003年9月9日(火) 天気:はれ
昨日の「手鞠飴」について「あれはNEXTSTEPの時代から虹色カーソル(別名:リソースの無駄)と呼ばれていたものである」といった情報をいただきましたが、肝心の飴については全く情報がありません。

書き書き中に用例を調べていたら見つけた「『律速』を普及させる会」。仕事が「余計なこと律速」になっているですって。
2003年9月10日(水) 天気:あっつ
旅は大丈夫でしょうか

疑惑の多いらしい事務次官宅に爆弾が仕掛けられたことより、それをいつもの口調で軽くいなしただけの政治家の発言の方をまず問題にして騒ぐのはただの批判のすり替えであって、論点から目をそらした無駄な茶番に過ぎないと思うので、裕次郎さんのおにいちゃんには気にせずこれからも放言を続けていただきたいかと。「閉鎖的」「内輪の馴れ合い」「顔が見えない」およびそれが原因であるところの「内部腐敗」「不祥事隠蔽」「癒着」を打破するためにはまず発言ありきでしょう。その発言が気に食わなければ、同じく言葉を用いて反論すればいいだけのこと。ブンヤを焚き付けて陰口を叩くのはまずフェアじゃないし、畢竟日本国内でしか通用しない小手先の技だ。いやしくも日本国の「Foreign Affairs」を名乗る集団が軽口ひとつに込められた真意に真剣に対応できないとは情けないね。

石原さんは曲がりなりにも作家の端くれだけあって「ことばによる意志表示」に関しては自覚的な人だ、というふうに見える(その意志の中身のアナクロニスムに関してはともかく)。だからこそ、彼の、いつだって凡百の既存の政治家のそれと比較して言い過ぎにしか見えない発言に対して、世論がその真意を汲み取ろうとさえせず、ただその字面だけをまるで言葉狩りのようによってたかって批判するばかりなのは情けないと思うし、だから石原さんは可哀相だ。もちろん私は石原都知事そのものに対しては何をこの保守反動の鎌倉文士のエピゴーネンめ気障ってる暇があるなら東京と一緒に滅んじまえとしか思わないし、だから本当は石原さんの弁護とも捉えられる発言はあまりしたくないのだけど、彼が「発言すること」を一番大切なことだと思っているのは確かだろうし、弟の知名度で持ってるそんな一介の文芸春秋系政治家が空回りせざるを得ない現在の日本の言説空間は、石原さんのアタマの中身と比べて、とうてい弁護に値するものではない。確かに石原さんの政治信条は稚拙だ。だが、それに論理的に反論し得ないあまり無視してしまうのであれば、それはもっと、ずっとずっと根本的なレベルで稚拙なことだ。
2003年9月11日(木) 天気:洗濯指数60(5時発表)
「フェラーリ、ガードレールに激突 2人死亡 千葉・市川 」という記事ですが、本文では最初に「外国製スポーツカー」と表現しているのにいちばんおしまいで「車はイタリア製フェラーリ」なんて書いちゃってます。小咄のオチじゃないんだから。

食堂できつねそばを頼んだら、お稲荷さん用に味付けされた揚げが出てきました。

昨日のことみたいのを書いたのは暗に、裏で音楽話を考えていたからで。西洋の、近代の音楽に供せられるべき楽器(特にヴィオラとか)を練習する行為は孤独なもので、だから練習中に色々なことを考えたりします。

音楽は(上の段落でいうところの音楽は)「他人(おそらくは不特定多数の)に聴かれるもの」です。保守的な考え方を持つクラシック音楽な人がカラオケボックスだの慰安旅行の宴会場だのでがなり立てられるカラオケを馬鹿にするのも、たぶんこれが最大の理由です(同じボックスにいる人たちにそれでも「歌って聴かせられる」人もいますけど)。この前提が崩れてきたのは、崩れたということが自覚されてきたのはたぶん第一次大戦後のヨーロッパでのことだったと思います(フルトヴェングラーの講演論集「音と言葉」のベートーヴェンの項あたりでは、すでに「スコア(音符)にされた音楽」対「演奏される音楽」という対立項について論者=フルトヴェングラーが自覚しているさまを見ることができます)が、それでもそれ以前の音楽にかんしては、その音楽内容がいかに個人的なものであれ、作曲するということはそれを音にして表現する人がいるということがその前提条件であり、つまり、音楽は作曲者と、作曲者から見ればどこの馬の骨とも知れぬ野郎どもであるところの演奏者からなる総体でした。作曲する、ということが第一義として自分の血肉を削ることであれば、その作品をまさに作品として発表する、ということは、自分が目の中に入れても痛くないほど可愛がってきた愛娘を「どこの馬の骨とも知れぬ野郎ども」の許に嫁がせることだったはずです。そんな愛娘たちに対して例えば大バッハは「娘を見たままに演奏すればすべてうまくいくでしょう」と言い、ベルリオーズは「うちの娘はこーんなことも、あーんなことも出来ます」と誇り、マーラーは娘の恋人をなかなか信用できずに、嫁いだあともときどき実家に呼び返しては娘の実体であるところのスコアにあーでもないこーでもないとわんさか指示を入れたりしたわけです。

さて、時は現代であり、対して私たちオーケストラな人間はだいたい200年くらい前の音楽を不特定多数な聴衆の前に開陳しているわけです。これはかなり困難な状況です。私たち演奏家は作曲者がもうずっと以前にfixした譜面を「スコアから読み取れる最大限の情報、つまり許容範囲」を逸脱しては演奏できないし、対して不特定多数の聴衆が演奏会に何を求めているかにかんしては、私たちはそれを演奏会が開催されている時点では知り得ません。だから例えばクラシック音楽をなーんにも知らないある聴衆が今度の演奏会のアンケートに例えば「ヴィオラパートの存在意義が判りません」なんて書いてきたとして、ヴィオラパートのパートリーダーである私はそれに抗弁することができないのです。何となれば、アンケートにそんなことを書いてきたその人の求める音楽とは「音響特性において特筆すべきところがないように見えるヴィオラにその存在意義はない」というテーゼに基づいたものかもしれないし、そうするとヴィオラ奏者である私は今度の演奏会に対して、その人の望むような音楽を演奏することが原理的に不可能になるのです。もちろん私は彼に対して「地元アマオケのヘボ演奏会なんか聴いてる暇があるんなら自宅でてめぇのヤマハのS88Proでも弄ってろヴォケ」とか言うことはできるのですが、それは多分彼にとっては陰口でしかない。直截的な言い方をすれば、「近代西洋音楽の、その最終形態であるところのオーケストラ、という自明性を否定されたところで展開される音楽批判、つまりは近代西洋音楽批判に対し、ヴィオラ奏者はそれに反論し得ない」のです。

この困難を乗り越えることができるとすればそれは、まず批判者にとっての前提であるところの「自明な近代西洋音楽」を虚心担懐に聴いてもらうこと、によってしかなし得ないでしょう。聴いてもらえれば「なぜ近代西洋音楽がオーケストラという形式を求めたのか」くらいは、音楽のレベルで判ってもらえるだろう、少なくともその可能性はあるだろう、と思います。聴いてもらえればいつか、延々ときざみをやったりチェロの声部を上なぞりしたりするだけに見えるヴィオラがどうしてオーケストラの弦セクションの中で今だにその存在意義が自明であるものとして存在しうるのか、いつか判ってもらえるかもしれない。ヴィオラは第二ヴァイオリン以上に、その存在意義を言葉によって説明することが困難な楽器だろうと思いますから、そのあたりを判ってもらうためにはまず「ヴィオラを、ヴィオラが入っている弦セクションによって表現されているまさにその音を聞いてもらう」べきだろうと思うのです。つまり、聞き手がそれに対して何を感じるかにかかわらず、オーケストラのヴィオラ奏者はまずオーケストラを、その中で、オーケストラという存在をまず認めた上でのみその存在価値があるようになる役割を演じているヴィオラパートを、聴いてもらわないことには話が始まらないのです。

不特定多数の聴衆が、オーケストラの歴史だのその社会的存在意義だの何だのという理屈をひとっ飛びにまず「オーケストラの音を聞」いている、という状況になるためにはまずその音を、オーケストラの音をまず音として聴いてもらわないといけません。そのためにはまず演奏会が必要だし、それに不特定多数の人が聞きに来れる状況がないといけないし、聞きに来てもらったそんな人たちが満足することができる「何か」がそこにないといけないし…。きざみだの変なリズムの対旋律だの何だのを練習しているとき、もしこの音を不特定多数の誰かが聴いていたら、そしてその人が今度のオーケストラの演奏会にきて、ああこの間聴いたヘンな部分はこの曲のこの部分だったんだ、なんて気づいてもらえたらいいな、なんて希望するのはどだい無理な話だし、だからそのへんを割り切った上でそれでも、誰かが聴いているだろうと思える状況でオケのヴィオラのパート譜を練習するのはそれなりに割り切った覚悟が必要です。石原さんが批判を承知で放言しまくる、というのと心理的にはちょっと似ている。つまり「多くの人には何を言いたいか/何で練習しているのか判ってもらえないかもしれない」という。そして、それは聞いて(聴いて)もらえないといけない。石原さんの場合はそれが、自己顕示欲じたいが自身の政治信念にとって不可避なものだから、ヴィオラにとっては、自己顕示欲すなわちヴィオラの存在理由を支える近代西洋音楽そのもの、だから。












…この調子で仕事の方の書き物もできないものか、とふと思う昼下がり。
2003年9月12日(金) 天気:いいと思う
BSD/OSの終焉

カスミでかかってる販促用音楽「めかぶの歌」(ほんとにそういうタイトルなのかどうかは知らない)の歌い終わりの「め、か、ぶ〜」という部分のrit.が妙に印象深い。曲の内容とわずか20秒ほどという演奏時間に比すると無駄に立派で、クナッパーツブッシュか何かを聞いているような錯覚を抱かせる。

カスミでかかっている販促用音楽「アイスクリームの歌」は弦楽四重奏の譜面が出ているのをこの間ヤマハで確認した。歌詞は多少無理してつけた観がないでもないし、歌い手が歌うたいというよりは児童むけ演劇かNHK教育のおねいさんといった声質の人なので今もってどんな歌詞なのかいまいち聞き取れていないのだけど、音楽だけ取り出してみると妙に奇を衒ったところもない、軽い素直なノリの曲だ。カバレフスキーあたりにオーケストレーションしてもらったら頬が緩むような管弦楽曲になっただろうな、と思う。

巷に溢れていて、いつだってうざったいように思えるBGMでも、それをちゃんと聞いてみると結構音楽的に色々楽しめることが多い。もちろんそれらは「聞いて楽しめる」以上のものではないけれど、それでも、気難しい顔をして「日本には非音楽的な雑音が多すぎる」とか言ってしまうのよりは、少しは実りのある行為じゃないかな。
2003年9月13日(土) 天気:フェーン!カムバーック!←意味不明なことを書くのは止めなさい
あまりの暑さに朝寝ができませんでした。

じゃりおけのリハーサルにつき合うため牛久へ。ホールは冷房がきいていて、他の団体のリハ中に心置きなく居眠りするのです。
2003年9月14日(日) 天気:フェーンアゲイン←意味不明な以下略
大人が走り回ってるような状況だと子供は感化されて異常なテンションになってしまうので、振り回して弓を折る子がいるはもう使わないからと予備楽器の弦を全部外してしまい魂柱を倒しそうになる子がいるはで大騒ぎでした。弓の時はその場にいなかったのですが、外した弦を復原してやって駒を立て直してついでに楽器の構造について講釈を垂れる羽目になったのです。

この調子だと、来年は本体を壊す奴が出てくる気がします。袖の暗がりで椅子においてあるのを知らずに座っちゃったりしそう。
2003年9月15日(月) 天気:阪神
ジェット風船や人間がわらわらと降ってきました(ぉ。…いや、さすがにつくばのうちの近所あたりで騒いでる人はいませんでした。

ファイルを買ってきて、ひきだしに散らばっていただけの葉書をまとめてみた。結婚しましたの案内、筆まめなほんとうにわずかの友人からの毎年の年賀状、以前顔を出していた市民活動のワークショップの案内、下水料金の督促状。半分ちかくがあちこちの団体からの演奏会の案内なのはご愛敬といったところ。年賀状すら出す習慣のない自分がさいごに葉書を出したのは誰かの結婚式の二次会出欠確認だったろうか。もう何年も、自分の手で葉書を書いて出した記憶がない。郵便じたいはよく利用するけれど、みんな楽譜とか楽譜の注文票とかばっかりだ。
2003年9月16日(火) 天気:はれ
かわいい。絵心があったら擬人化したいと思わせる子です。双子の兄弟(432)でお手手つないで霞ヶ浦湖畔を散歩〜。
2003年9月17日(水) 天気:はれ
どうしてAC全面禁止にしなかったのよ。それはともかく日本の言説空間内ではこの手の「議論のための議論」が一番盛り上がるわけだ。もちろんそれに反応しているこの文章だってそう。そのことが空論のオンパレードであるという批判を呼び、やがて議論の場そのものが廃れていく(fjがそう)。もちろん議論のための議論が悪であるなんて誰が決めたことでもない。大いに議論して結構なのである。だから、無駄な議論であると無駄に叩かれては議論の場そのものが萎縮してゆくことで日本人がいつまでたっても議論上手になれないのは、「われわれは議論のための議論が何よりも好きなのである」という事実を個々人が自覚していないからだろう、と思う。

鬼無里はいいところです。高校の部活の合宿で行ったのです。統廃合された学校の木造校舎が資料館になっていて裾花川のアンモナイトがごろごろしていたりしました。妙高に登りにいったのですが、一年坊主が浮石だらけのガレ場で固まってしまい止むなく撤退したりしたものです。
2003年9月18日(木) 天気:たぶん暑いんだろうな
守衛さん「おはようございます。今日は暑いですね!」
私「ええ!今日“も”暑いですねっ」
守衛さん&私「あっはっは」
…もう笑い飛ばすしか。

『「着うた」用にクラシック専用演奏 KDDI 』だそうで。是非ラインナップに「4分33秒」を加えていただき、大いに流行らせてください。…着メロだの何だのが大嫌いなだけですよ。

朝鮮中央テレビによると「天罰」だそうです(嘘)

あんよさんの日記経由でいずみのさんの9/11の記述を拾ったのです。他人に対する愛情が物語を持ったのが恋愛で、男性が男性に対して抱く愛情が転化したのが友情、というかんじにまとめられるでしょうか。ここで家父長制と男性同士の同性愛禁忌を仮定しています。どうして「スイッチが入ることの恐怖」があるのに、スイッチの方は「入りたがっているように見える」(友情が賞賛されることであるとされている)のかな、と思ったもので。で、この考えでいくと「女性が女性に対して〜」というのは欠落している(性の非対象性ということでしょう)ように見えるのですが、そこに何か既存の物語を流し込もうとすれば一番親和性が高いのは男同士の友情の物語でしょうし、そうするとだから何も知らない男性がそんな物語を見てそこにまず友情を見つけてしまうのは当然のことといえます。もちろん「マリみて」に話を限ってみれば、そしていずみのさんの論に従うと「スール制度という発明」(いずみのさんの9/4のマリみて論)はさきの「女性が女性に〜」に与えられるべき新たな物語(「恋愛物語」「友情物語」と同置される「スール制度物語」ということです)なのかもしれません。マリみてが真に新しいとすれば、そういうことになるかな、と理解しました。
…それほど大げさに話を広げられるものかどうか、確信は全く持てませんけれど。
2003年9月19日(金) 天気:はれ
おかえりなさいませ

小さい頃から、気に入った本は何度でも読み返す癖があって、いや、本だけではなくて時刻表の気に入った路線のところを眺めたりもしますが、よく読み返す本は枕元に積んであります。今積んであるのはマリみてなわけですけど。もちろん毎日毎日、既刊の14巻全部最初から通読するわけはなく(そんなことしてたら夜が明けてしまう)、読み返す場所はそんなに長くありません。何度も開いて味わいたくなる場所には傾向があって、たいていマリみての「大きな物語」からちょっと離れた場所です。マリみての大きな物語はもちろん祐巳を筆頭にした現行2年生三人の、学園生活を軸にした成長物語で、各巻に一個所以上はあるその大きな物語のエピソードの山場の部分を「大きな物語に近い」とここでは表現したいわけです。

コミック化、アニメ化で今、まさに盛り上がっているマリみてのファンサイトを巡ると、大きな物語にかんする関心が当然のように高いわけです。現在、大きな物語として次に描かれなければならないのは祐巳の妹のことで、だから妹は誰か、どういう理由で選ばれるのか、という話で盛り上がっています。さて、それに対して、というより多分最近のマリみての大きな物語の方向性を何か違うと思う人はマリみての真骨髄は薔薇の館での日常描写だの姉妹のいちゃいちゃだのの方にあるのだ、と主張しているようです。「マリみてサザエさん化」というのを確かごうさんのところのどっかで読んだような。これは大きな物語を意識して無視する、というスタンスのもとで成立できる、いうなれば前者の立場の補集合のような立場になるだろうと思います。実際、この両者の注目する部分を合わせれば総体としてのマリみてになるわけで。マリみてはたぶん古典的な物語ですから、作者が直接に描きたかったこととしてその大きな物語が読み取られなければなりませんし、何も起こりそうにない、薔薇の館でただお茶をすすったりただお茶をすすったりただお茶をすすったりするという世界観がマリみての特徴ですから。

さて、最初の段落のようなことを書いた私は大きな物語なんてどうでもいいと思っている立場なのか。そうではないです。どうしてか。こういうことを考えてみましょう。いったい何故、マリみての物語は祐巳の成長物語でなければならなかったのか。ややこしい設定を持つ歴史と伝統のあるリリアン女学園という舞台が必要だったのはどうしてか。この設問をいきなりものすごく乱暴に言い直してしまいます。生徒にとって学校とは何か。これならすぐに結論が出せます。生徒は学校生活の中で「成長」するものですし、学校は社会の他の要素にない特徴を持つ一つの設定、舞台ですね。判りにくい言い方をすると、学校という座標系があって、生徒はその中を運動しているのです。そして生徒は学校を卒業しないといけない。そこがどれほど居心地がいい場所であれ。そして、物語るということは世界の中で視点が錯時的に移動することで可能になるのです。世界(ここでは学校=リリアン)が前提され、そこで話者(生徒=祐巳とか)が移動(成長)するという。世界と話者は相補的なもので、どちらが欠けても物語を物語ることはできません。さっきから書いている「大きな物語」とはマリみての物語の半分、いや、マリみての総体の「プロット部分」で、それはマリみてで描かれている内容の、わかりやすい方の半身でしかない。ここでわかりやすい、というのは、要約しやすい、というほどの意味です。わかりやすいからこそ、それをファンサイトなんかで話題にしやすいのですが、はたしてわかりやすいそれはマリみてそのものを伝えられるものなのか。あらすじだけで物語を伝えるのは、マリみての(ジュブナイルの、と言ってしまった方がいいかもしれない)物語構造的に無理だと思いますし、大きな物語の行く先だけを話題にしてどうこう、というのもなんか違うなと思うのです。もちろん私が寝る前に読み返したりする、いわばわかりにくい部分は本質的に物語れない、まとまった文章として表現しにくい部分であり、それについての魅力を伝えるのは例えば可奈子の心の闇について小一時間熱く語ったりするよりずっと難しいことなんですが。そう、そういう部分の魅力を大きな物語との相補的なものと捉えて弁護しようとするだけで、今日のこの文章みたいになってしまうわけで。

いやまあなんだ、その、「一人一人にとってやがて過去のものになることが判っているからこそその魅力を感じることができる薔薇の館」みたいな話に落そうとしたんだが、えらい堅くて判りにくい話になっちまったい。「卒業という形でなく、いつかここからいなくなるかもしれな」かった志摩子さんというキャラクターはそうすると、大きな物語とリリアンをつなぐいわば引き立て役だったのですね。
2003年9月20日(土) 天気:あめ
キラルの管弦楽曲集(NAXOS 8.554788)。…真面目ですね、ってかんじ。宗教曲だからかな。
2003年9月21日(日) 天気:寒い
自民党の行く末みたいな気温。

私信ですが、例のてすと(謎)は「まぁ、こんなものかな」という程度に仕上がりました。もう一度やる気にまではならなかったです。
2003年9月22日(月) 天気:春のような陽気
日差しはまだ鋭いんですけどね。tenki.jpのアメダスで見ると、今朝方は歌登や中頓別などでは2℃まで下がってたみたいです。

祐巳がもし小寓寺に泊まりに行くことになったら、祐巳のお母さんはとち狂ってぎんなんだのユリネだのを宅急便で送りつけるのでしょうか。

viがクラッシュしたのではなくて?
2003年9月23日(火) 天気:はれ
ええ天気や。

(N)viでクラッシュ時のバックアップを無効にする方法を探してみたのですが、set recdir=/dev/nullみたいな方法しかないみたいです(.exrcに書いておけばよい)。他に方法ないのかなぁ…
2003年9月24日(水) 天気:気圧の谷が
ここ数日、W32.Swenの大群が攻めてきています。私の本名公開してる方のメアドで軽く100通を越えました。メールでOSのアップデートをばら撒くソフト会社があるわきゃないんで、みなさま、くれぐれもひっかかりませぬよう。

やる気がある人が困るだけだと思います
2003年9月25日(木) 天気:くもり
Swenは一段落しました。したと思います。してくれ。

日本ではスレッドがどうやって腐ってゆくか実証実験中です(ぉ
…くだらないですって。ネタがないんです。

実証実験といえば、帰りに雨がぱらついていたのでちょうどやってきたTDM実証実験の100円バスのセンター地区循環の奴に乗ったら、私のほかにも乗客がいてびっくりしました。
2003年9月26日(金) 天気:はれ
苫小牧の出光って前も大火事起こしませんでしたっけ。フェリーターミナルがまた煤けてしまう…<言うことはそれかい

↓こういう場合、どこまでが熱帯低気圧なんでしょう(通常、閉じた等圧線(これだと下が切れてるけど)の大きさだったと思います)。
日本列島がすっぽり収まってしまいそうな熱低

大きな地震が起きたりでかい台風が来たりするたびにNHKが災害対策のtipsを放送するのだが、それを聞きながらいつも思う。いつもいつもいつも思う。初等・中等教育において自然科学教育を微塵でも軽視するいかなる輩も今すぐに氏ね。そもそも義務教育とは何なのかか。ひとがこの世界で、この日本で、毎年のように地震や台風の被害が発生することが判っているこの日本で、その土地でそれらに備えかつ生きて行くための最低限の知識と訓練を身につけるためのそれでなくて何なのだ。科学立国、技術立国の名を縦にしている(ということになっている)この日本において、自然災害によって住民がその無知によって犠牲となることがあるなんてことがあればそれはほかでもない、日本国そのものの恥辱だろう。
2003年9月27日(土) 天気:多分悪いんじゃないの→秋晴れになりました
北陸本線の普通列車に「おやしらず」なんて列車愛称がついたら、やっぱり「はくたかがおやしらずを抜いた」とか表現するんですよね。するんだと言って下さい。ごめんなさいOHP作らなきゃいけないのに現実逃避してるだけです。

今日も暑そう…←やっぱり暑かったです。

中央線高架化にともなう単線運転、行きたかったなぁ<迷惑です。閉塞はやっぱり指導員でやるんだろうな。201系10両にスタフとかだったら激萌えだったんだが<マニアがたかるので絶対ダメです

「農家庭先から天然ガス 千歳」ライターの火を近づけたら燃え上がったので消防を呼んだとのこと。そんなもん近づけないでください…
2003年9月28日(日) 天気:はれ
休日らしくなくばたばたした一日でした。

ロバート・シンプソンの弦楽四重奏2番と5番(Hyperion CDA66386)。ショスタコの中期にしか聞こえない…

中央線の復旧遅れですが、あれでもし運行を優先させていたらまたそんな危ないことを、と新聞が叩いたに違いありません。大体ブンヤなんてのは全員線路の枕木にでもしてしまえばいいのです(根性がないので使いものにならない音)

ま、大規模工事はやらないが吉ってことだ。
2003年9月29日(月) 天気:はれ
あついの。

大学のふだんあまり行かないエリアに実験室があって、そこに時々行かないといけなくなる(何の用事かは忘れた。何故か楽器練習するんだったのかもしれない)のですが、普通に行こうとすると建物や通路が入り組んでいて面倒くさいし遠回りなんですね。で、一緒にいたそのエリアに研究室がある女の子がじゃ今度はこっち通ろう、とそのエリアの入口にある部屋の鍵を開けてくれて、奥に続く長くて薄暗くて薬品棚だの錆びた什器だのが転がしてある窓のない真っ直ぐな通路を歩いて抜けて階段を上がると目的の実験室のある建物の入口にあっさり出る、という夢を見ました。ちなみに女の子は後輩です。実はあまりにもメタファがてんこ盛りなので勝手に読みとってくれ。

まだ燃えてんのか…。港は閉鎖、フェリーは東港に入ったりもしてるようです。

Perlですが、そろそろ5.8 later に上げた方がいいんでしょうかねえ。hashの格納順とかUNICODEとかmapの効率化とかいろいろあるみたいですが、今の使い方だと別に嬉しいわけじゃないし…。

栃木の山奥ではSARS感染力が激減、と読んだ人も多いと思う(多くありません)
※「ドロマイトのナノスケール微粒子がSARSウィルスと同属のウィルスの感染力を激減」というニュースです。なんで栃木の山奥なのかはそのへんの地学の人か古参のSLマニアに聞いて下さい←謎
2003年9月30日(火) 天気:はれ
はればっかり。

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