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々ゞ仝〃(日記)

2003年08月


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2003年8月1日(金) 天気:くもり→はれ→あめ
お仕事さつさつ。

某高級機能がついているらしいと目して買ってもらったとある売り物の学術系ソフトをいじっています。某高級機能はおまけのパッケージライブラリに入っているもので、使うにはちゃんとプログラミングしろということでした。それは一向に構わないのですが、マニュアルについてきたサンプルコードを突っ込むと途中で不正終了します。挙動不審です。こういうときプラットホームがUnix like OSだったら原因きり分けが楽なのにと、ぶつぶつ考えながらいじっていたのですが、結局原因不明。
2003年8月2日(土) 天気:あついあついあついあつい
気温は上がってもいいんです。いやむしろ上がらないと困る。お百姓さんが死にます。日本が飢え死にします。だから気温が高くなるのは全く構わないんですが、湿度まで上げないでください。おながいしまつ。

とある地元のジュニア・オケで動物の謝肉祭の抜粋をやるので手伝うことになっています。今日、譜面がきました。よく覚えていないので各曲のタイトルを辞書で調べたりしていたんですが、動物園の描写という設定なのに「ピアニスト」とかいう曲があるわけで。うーん、この手のエスプリは茨城の純真ながきんちょにはちと判りにくいのでは…。
2003年8月3日(日) 天気:はれ
そういえばIpomoea nil.(あさがお)が花を咲かせはじめました。今朝は咲かなかったのだけど。

しかし学名のnilってのは何があったんだ。…と思って調べたらアラビア語で藍色とかいう意味らしい。ゼロとは関係なかったのですね。
2003年8月4日(月) 天気:はれ
仕事場で歓送会です。やっと外でバーベキューだの何だのをしたくなる陽気になりました。研究とエントロピー増大の関係だの50ccで6気筒のエンジンの話だの、理工系ネタで存分に盛り上がれるのです。
2003年8月5日(火) 天気:あついあついあつい
各地で大雨だったようですが、つくばは大したことなく。

盆には熊本に戻らないといけないのです。昨年度の西日本方面につづいて今夏からは「ムーンライトながら91/2号」化と、18きっぷシーズンの臨時夜行快速の全車指定席化が進んでいます。なので指定を取りにいきました。10日晩の西方面下りは全滅でした。もちろん私のことですから、ここでいう「下り」とは「ながら91」「九州」「山陽」「八重垣」「松山」「高知」のことです。「八重垣」はもちろん未明の岡山で下車するなんてセコいことはせずにまる一日山陰路を満喫するのですし、四国からは船で柳井や別府や臼杵や佐伯まで船旅を楽しむのです。いやしかし、全部ないですか。そうなると選択肢は、この夏のシーズンで自由席がついている18きっぷ利用可能な夜行列車である下り定期「ながら」の小田原からと「八重垣」だけになります。この状況だと両列車とも「メッカへの巡礼者を満載中です」みたいな感じでしょう。

私みたいに18きっぷがどうのという以前に両親の里が九州にあって毎年戻る用事がある、という状況ならそれでも腹をくくって乗ればいいだけなんですが、例えば九州に縁もゆかりもない人があるあつのなつい日にふと、旅と鉄道を楽しむために九州に行きたくなったりなんかしちゃった場合にはこういう状況はイヤだろうなと思います。牛丼が好きで吉野屋に入ったら150円引き目当ての集団の巻き添えを食ってしまうようなものですから。そろそろ「青春18きっぷ」という名前は止したほうがいいです。現状にそぐわないもの。「ゲルピン民族大移動支援きっぷ」にでもしたほうがよろしい。「青春」「18」「鈍行列車」「暇」という70年代フォークソング的組み合わせと、一月前に指定席を押さえなければいけないような列車に詰め込まれどうせロクに時刻表も読めず夜通しメールを打ち続け早く目的地に着かないかということばかり考えていそうな現代の若者連中とは相容れないに決まっています。
2003年8月6日(水) 天気:あついあついあつ
関東平野の除湿器のスイッチを入れ忘れているのは誰ですか。

指定券ですが、一日遅らせたら「松山」が取れました。忘れちゃいけないので帰りも。こちらは「九州」が一席だけ残っていました。ええと、松山を通るのは3年ぶりくらいかしら?さて、そこからどっちに行こう。八幡浜〜臼杵は以前やったから今度は別府行にして、そうなると八幡浜でどうせ時間があるから未乗の長浜まわりで海を眺めたいものだし、お、ちょうどいい時間に三津浜から屋代島に寄港していく柳井行もあります。これも楽しそう。どれにしようかな〜。ただ、九州島内の普通列車での移動って結構時間を食うので、あんまりのんびりもできません。やっぱり柳井に行くのが一番速いみたい(正確な縮尺の地図で見るとわかりますが、柳井は実は松山の真西にあります。一旦本州に戻るのは遠回りでもなんでもないのです)。別府に上陸した場合には豊肥本線はそのあと遅くまでないので、久大本線で久留米に抜けるのがいいみたい。別府から小倉回っていくとほんっとうに遅くなっちゃう、と。それとも、前やったのと同じルートで臼杵からバスで三重町に抜けるかなあ。あのとき乗った時間のバス、まだ残ってるかな。

なーんて感じで、与えられた制約内で最大限に遊ぶのが18きっぷの使い方だと思っています。
2003年8月7日(木) 天気:はれ
朝は涼しくなりそうだと思ってたんですがね〜。

脱力しました
2003年8月8日(金) 天気:うずまき接近
山梨の大叔父が亡くなりました。熊本にいる母は明日飛んで帰るとゆーてますが、飛行機飛ぶの?それにしても台風一過で暑そうな甲府盆地で黒の礼服か…。

モアレ模様で波の干渉を説明する教材だそうですが、「自転車のかごなどで見ることができる」なんて書いてあります。私の自転車のかごでは見れないと思います。網戸とかすだれとか、何かもっと適切な奴を思いつかなかったんでしょうか。
2003年8月9日(土) 天気:うずまきさつさつ
とっとと逝きやがれこの鈍足台風が。そういえば母は羽田に着陸する前、関東平野を三周したそうです。牛久のじゃりオケの練習手伝いに行くついでにエスカードに寄ったら、台風のおかげで土曜の夕方というのに閑散としていました。
2003年8月10日(日) 天気:はれ
朝3時半に兄の車で流山を出発、途中談合坂で30分ほど休憩して、甲府には7時につきました。帰りは4時15分に出たのですが、八王子のいとこの家まで3時間半かかりました。小仏トンネルで詰まるのはいい加減なんとかならんのでしょうか。大月のあたりは線増広がったのに〜。
2003年8月11日(月) 天気:はれ
いとこの家で猫いじり一服したあと、結局流山に帰り着いたのは11時半。起き出してシャワーに入って、支度のために今つくばに戻ったところです。これから熊本なので、1週間ほど留守にします。…毎日このお天気だと、花も終わったひまわりはいいとしてあさがおが枯れそう。
2003年8月12日(火) 天気:雨模様
東京―静岡―豊橋―大垣―米原―京都―松山―八幡浜〜臼杵―柳ヶ浦―西小倉―大牟田―上熊本でした。ついでに乗りつぶしたのは松山の市内電車と予讃線の海線部分と日豊本線の北半分。雨が降っていたのと時間が押していたのとで八幡浜FTまでと臼杵駅まではそれぞれタクシーです。臼杵の運ちゃんは地図にないような裏道を通って初乗り料金で行ってくれた上、10円単位の端数はサービスしますなんていいます(ちゃんと払いましたが)。九州だな、と思いました。

松山からの列車は四国のキハ54たった一両でした。目の前の運転所にはキハ47だの特急格下げのキハ185だのもいたのですが。ホームには部活の高校生集団が待っていたりして混みそうだったのですが、出入台の脇まで伸びた超長いロングシートのおかげでほとんどの人が座れます。伊予市まででそれなりに降りる人もあり、次の向井原で山線と分かれ、小さい峠を越えると伊予長浜まで列車の進行方向右手はずっと海でした。ずっと小雨がぱらついていて、霞んだ錆銀色の水面は青々とした線路脇の緑が車窓を縁取っていなければ冬の海のようです。隣では部活集団の男子高校生が居眠りをしています。連中は車両のあちこちにばらけて駄弁っているのですが、後ろの運転台のあたりにいた女の子の一人が別のグループに呼ばれて通りがかるついでに一瞬足を止め、ぐうぐう眠ているそいつの足を軽く蹴飛ばして素知らぬ顔で立ち去っていきます。眠りこけていた顔が目を開き、その後ろ姿を追います。その背中はこちらに気づかないふりをして向こうで別の男の子と戯れています。それから何度か女の子は前を通りすぎ、そのたびに視線が後ろ姿を追っています。一度だけ女の子は正面まで歩いてきて顔をすごく近づけると二言、三言声を交わしてまた去っていきました。男の子はどちらかというと背が低くてぼうっとした感じで、女の子は勝ち気そうな顔立ちです。連中は他の大勢の乗客と一緒に伊予大洲で降りていってしまい、がらんとした車内には静寂が戻りました。
2003年8月13日(水) 天気:くもりときどきあめ
アクアドームに泳ぎに行くという父親に明八橋のところまで乗せてもらって新市街へ。唐人町を歩いて抜けるのです。駐車場などで大分虫食いになってはいますが、昔からの佇まいです。松竹で「マトリックス・リローデッド」を観てきました。…日本人ならあれ全部アニメでやっちゃうんだろうな。制作費用全部くれたら素敵な邦画がいったい何本撮れ(以下略)

帰りはセンターからの河内行の産交を待つのが面倒だったので市営で帰ったら雨が降ってきて困りました。合併で河内まで市内になったんだから由乃芳野道路に入る系統も作って欲しいものです。梅雨前線が南下してきたおかげで眠りやすい夜です。
2003年8月14日(木) 天気:大雨→はれ
島原鉄道に乗ってきました。諫早〜加津佐間78.5kmという、国鉄/JR転換の第三セクターでない非電化地方私鉄としては最長の営業キロを持ち、西に欠けたクロワッサンのような形の島原半島の東半分をそのつけ根から先端までぐるっと巡る鉄道路線です。

熊本から島原半島に行くには長洲から多比良までか、平成に入ってから新しく完成した熊本港あるいは三角から島原外港までのフェリーや高速艇を使うのが一般的です。長崎道が諫早までつながるまでは熊本〜長崎間の長距離バスも長洲〜多比良のフェリーを使っていました。ただ、長州港、熊本港と鉄道との連絡が悪いので利用にはちょっとした工夫が必要です。例えばやることがなくて暇そうにしている父親を見つけて長洲まで車を出してもらうとかなんとか。というわけで花園を朝7時ごろに出ます。ここからだと県北西部の海岸沿いまでは「草枕」に出てくる峠の茶屋を通って県道一号(芳野道路)で一本なのですが、雨にけぶってすぐそばに聳えているはずの金峰山も何も見えません。途中から河内に下る道に入りますが、雲がバケツをひっくり返しまくっていて豪雨としか表現できない勢いで水が降ってきます。道沿いの谷に濁流が渦巻いています。干拓地の中を突っ切る道路にも水があふれています。もう一度干拓し直したくなります。

昨日からお盆ダイヤになっていて運行間隔が少し詰まっています。新しいフェリーターミナルは季節感不明の風景の中に灰色に沈んでいます。長洲のシンボルともいえる造船所の、紅白に塗られた巨大な門型クレーンも雨で見えません。小枝だのごみだのが浮く濁った水面を眺めているとけぶった中からフェリーが近づいてきます。あまり日本っぽくない風景です。船内は前向きに長い席が並んで、テレビが朝の連続テレビ小説を流しています。出航して10分も経つとあたりは真っ白になってしまいます。風は出てきているのですが、水面を打つ雨のために波は高くありません。買って鞄に放り込んで置いた「イリヤの空UFOの夏」最終巻を読んでいると多比良到着のアナウンスがあります。所要40分ほどの航路です。

フェリーターミナルからまっすぐの道はすぐ国道にぶち当たりますので左折します。小さな川を渡るところで右手に島原鉄道の鉄橋が見えます。すぐにファミリーマートをはさんだ三叉路になるので右の細い道を行くと踏切で、前方に駅構内が広がっているのが見えます。左に抜ける道の突き当たりが多比良町の駅舎です。ここからまず起点の諫早を目指します。壁にフリーきっぷのようなものが出ていないか探すと、島原半島遊湯券(大人¥2.800-)というのがよさそうです。島原鉄道の鉄道線と路線バス、口之津〜鬼池のフェリーが乗り放題、沿線の指定施設での無料入浴券(一回限り)がついています。なんせ諫早〜加津佐の片道で¥1.950-もかかる長大路線ですので、乗りつぶし目的だけで元が取れます。このほか、小中学生用に500円、高校生用に1000円の鉄道限定の乗り放題きっぷがあり、かなりの利用者がありました。ざんざん雨が降っている中、駅員の案内にホームに出ると一両の黄色いディーゼルカーが入ってきました。車内は立ち客が出るほどになります。

窓際の席に座れなかったし、読みかけの「イリヤ」を放ったらかしておけるわけもないので膝の上に本を広げます。この車両、島原鉄道のS-DC2500はJR九州のキハ125とそっくりな車両ですがトイレの設備があります。窓を潰したところには「島原の子守歌」にあやかって子守娘の絵がペイントされています。この鉄道会社は昔から国鉄型の車両を自社発注してパクるのが好きなところで、以前はキハ55やキハ20そっくりの両運転台の急行用車両を作って長崎本線の気動車準急に連結してもらい、長崎や佐世保、小倉にまで直通運転を行っていました。現在は直通運転はありません。「イリヤ」を読み終わった頃、諫早の郊外に入ります。「干拓の里」という名前の駅があります。次は「(さいわい)」です。最近駅名を変更したのでしょう、駅名標に塗り直した跡があります。九州らしい坂の多い街並みに入り、本諫早に到着します。ここ発着の区間運転の列車もある駅です。次が起点の諫早で、谷間にごちゃごちゃ鉄道施設が広がっていきます。

駅は旅行客や帰省客でごったがえしています。ご飯を仕入れられればと一旦改札を出たのですがこれはと思うものもなく、すぐ駅舎内に戻ります。茨交みたいに島鉄の発着線のある0番ホーム上に設けられた中間改札をくぐると今乗ってきた列車が南島原行になってドアを開けたところでした。進行方向むきの窓際を確保してちょっと外に出ると、「少年」と表現するのがふさわしい小学生が所在無さげにうろうろしていました。さっき改札をくぐるとき、親らしい人に「改札から左側の0番線だから」なんて言い含められていた子です。「どこ行くの?」と声をかけるともそもそと鞄からメモを取り出したりしています。「布津です」というので、この汽車でいいよ、と教えます。ほんとうはこの列車は布津の結構手前の南島原止まりで、そこから先は諫早からの次の列車である加津佐行急行(南島原からは各停)に乗りかえるしかないのですが、その急行が諫早を出るのはもう40分ほど後です。それまで小学生たった一人を、博多からの特急が到着するたびにごったがえす本線の駅に一人で放置しておくのも可哀相ですから、先に南島原まで行かせるのがいいだろうと思ったのです。

直前に特急が到着し、結構な混雑になった黄色い一両は今さっき眺めた風景を巻き戻しはじめます。また雨が降ってきました。交換可能駅は駅一つおきくらいの間隔であり、そのさらに一つおきくらいで実際に列車と交換します。雨にけぶる車窓ごしに、どの列車も結構人が乗っているのがわかります。ただ、みんなS-DC2500の一両でした。吾野、愛野と島原半島のつけ根の田園地帯を過ぎ、用水路の水が溢れているところで徐行し、切り通しで徐行します。斜面にごろごろと飛び出している岩塊にまだ新しい赤のペイントがスプレーされているのが見えます。先日の長崎本線での、落石が原因でかもめが空飛んだ事故の影響で運輸局から指導がきているのでしょう。左手に灰色の海が見えています。不規則な三角波が石ころの浜に打ちつけています。天気の悪いときの内海そのものです。多比良町の一つ前の神代町で交換列車遅れのためにけっこう待たされました。今は上下の線路だけになってしまった駅構内に隣接して古い、おそらくは戦前からあると思しき土壁の大きな倉庫があって、床下の空気穴に古めかしい鉄製のフタがついています。駅が開業した当初からあるものでしょう。九州という場所はときおり、とんでもなく古めかしい建物や設備が現役だったりする土地柄なのです。

島原鉄道の各駅や車内に張られた鉄道関連の各種ポスターには「創業95周年」の文字が躍っています。これはもちろん「創業」であって、「開業」ないし「開通」ではありません。言い換えればそうでないことが、つまり「島原鉄道」という、まさに「島原半島」の「鉄道」であることを象徴する名前の会社がそれだけの伝統を誇りたいのだ、ということを物語っているのだと考えられます。島原半島に鉄道を、といううごきは明治はじめころからあったようですが、それが具現化するのは明治もそろそろ終わりになったころ、地元出身の帝国衆議院議員植木元太郎の狂気とも思える尽力があってのことです。実際に島原鉄道の名で会社が発足し、鉄道が第一期開業部である諌早〜愛野間に走りはじめたのは明治44年、今から93年ほど前のことになります。「その地域が鉄道を痛切に欲しており、かつ現代でも鉄道が(実際の利用実態とは関係なく)その地域にとって欠かせないものであると認識されつづけている存在である」という状況は現在のいくつかの国鉄/JR転換の第三セクター路線と共通するものですが、実際、現在の島原鉄道の鉄道線の運営はなかば地元自治体からの出資によって支えられているという実態となんだか似ています。出自や歴史はまるで違えど、東北の第三セクターの雄である三陸鉄道と似ているといえるかもしれません。

ざんざん降っていた雨が弱まるころに島原の市街に入りました。人口四万(帰りのフェリー船内での観光案内放送による)の町としては、市域が狭い上にすそ野に人家が集中しているので落ち着いたたたずまいながらけっこうな都市に見えます。島原駅は歯の抜けたようにまばらな観光看板の列が往年の筑波鉄道の筑波駅を思わせました。ホームの屋根の鉄骨がかなり低いです。ここでそれなりに降ります。そこから路地裏のようなところを辿っていくと河口に作られた船だまりの中を築堤で横切ります。うっくざれた(=熊本弁で「うち崩れた」の意)木っ端船が鉛色の水に沈んでいます。その先が島原鉄道の車両基地、開通当時は有明海各地への船との接続駅としてにぎわった南島原です。この列車はここでおしまいです。

わずかの乗り換えの人が待合室に残ります。さっきの少年も大人しくベンチに座っています。駅本屋は創業当初の島原鉄道本社の社屋だったらしく(現在は南島原の一つ諌早寄りに「島鉄本社前」という小駅があります)、ホームに沿って伸びる薄水色の古めかしい木造の建物です。ここは島原鉄道の車両基地でもあり、加津佐にむかって右カーブする本線から分かれて多数の側線が広がり、現在同線の主力形式であるDC-S2500がわんさか転がっています。中に交じって少しだけ、国鉄キハ20形と同じ車両がいます。かつて自社発注した国鉄乗り入れ車両と、後になってJRの廃車を購入したのと二種類いたような気がします。キハ20のほうはかつての島鉄急行色(かつてのクリームと赤の国鉄急行色に、運転台の下に国鉄特急車よろしくヒゲを入れたもの)あるいは朱色にクリームの一般国鉄気動車色に塗られています。これは茨城交通に端を発した気動車の旧塗装リバイバルのおかげなのですが、現在主力として使用している気動車が色までほとんどJRのパクリであるということを考えるともう何が何やら、という気もします。駅舎の脇にある駐輪場から車両基地の全景を狙ってみます。DC-S2500の車体側面に描かれた、何だか変な色の車両にまたがった子守娘の図案はもうちょっと頑張ればふさおとめやエココも狙えるのでは、という気がしました。そんな構内のはずれには真っ黒い車両が二両、並んで止まっています。片方は国鉄から貰ってきたらしい真っ黒のヨ8000、もう一両は同じく貰いものらしいワム80000ですが、車体に白の縦書きの下手糞な書体で大きく「救援車」とありました。ご丁寧に島鉄の社紋も描かれ、形式表記のところに小さく「ハ」まで書いてあります。この記号はJRにおいては二軸貨車で85km/h以上の高速運転が可能である、、という意味です。この車両が今後島鉄内を85km/h以上で走行する確率と、浅羽と伊里野が南の島で平穏な一生を暮らすのとどちらが確率として高いでしょうか。いや、その車両が現実に存在するという意味では前者の確率の方が高いでしょう。

南島原の舟溜りの奥(舟溜りというのはたいてい河口付近につくられるもので、南島原の舟溜りももちろん、雲仙の山にその源を発する小さな川の河口に作られています)の奥に石橋を見つけたりしているうちに次の加津佐行が到着します。もちろんさっき途中駅ですれ違った車両で、運転台側にある表示板受に刺さっている「急行」の青く丸いマークを駅員が剥がしていきます。さっきの少年は待合室で待っている間に目的地が一緒の乗客(老人です)を見つけたらしいようで一緒に談笑しています。もう少し鉄に興味を持ってくれれば鉄分の濃ゆいことを色々教えたのに、と思いながら空いている席を探します。ここから先は開通当時はここ南島原で島原鉄道と連絡する口之津鉄道という別会社の鉄道路線でした。戦時統合により島原鉄道に吸収合併された(昭和18年)ものです。島原半島にはこのほかに愛野から半島西側に分岐し、橘湾沿いの小浜温泉まで伸びていた雲仙(おんせん)鉄道という名の鉄道路線がありましたが、こちらは昭和の大恐慌を乗り切れずに昭和13年に廃線になっています。
2003年8月15日(金) 天気:良くなく
母が羽田から戻ってくるときにバードクラッシュの影響で1時間待たされたそうです。

夜は香蘭亭でごはんにしました。お盆のせいか混んでいたです。
2003年8月16日(土) 天気:あめ
家族で、叔父の住む阿蘇に日帰りで行くわけです。57号大分方面はいつものように阿蘇大橋で渋滞しているので大津からミルクロードに抜けたら途中からえらい雨になってきました。二重峠を越えて赤水に降りた頃にはまた止んだのですが、外輪の上半分は雲をかぶって見えません。あの上にはアルプスなみの山が聳えているなんて嘘こいても信じちゃいそうです。もちろん五岳もロクに見えないのです。永草の叔父のところでお昼にして一服したあと今度は登山道路の方へドライブに。霧と化した雲の中、牧草地の中を抜けていると真っ白い切れ間からいきなり緑の山肌が出現。米塚の山腹でした。道路のすぐそばなのに雲が濃くて見えなかったのです。杵島も往生も見えないまま草千里の展望台まできたらいきなり頭上に青空が広がってきました。が、写真を撮ったりしてから火山博物館の先まで行ったらまた阿蘇濃厚4.3牛乳みたいな霧です。ロープウェイのところで引き返して、帰りは坊中に下ります。叔父が阿蘇の駅前に新しく温泉が沸いたなんて言うので探索しに駅前に折れたらもくもくと煙が上がっており、ちょうど上りのあそBOYが発車するところだったのでした。一旦戻ってから今度は南郷の入り口のアソシエートに風呂に入りにいって、夕ご飯を食べて戻るのです。立野を過ぎたあたりでまた猛烈な雨が降ってきますが大津バイパスに折れるあたりでぱたりと止みます。帰ってからニュースを見たら山鹿灯篭も俵山の山焼き(アソシエートのすぐそばなのです)も雨でいまいち、ということでしたが、永草に直接戻った叔父に電話したらそちらは降らなかったとのこと。あちこちで局地的な大雨だった、ということみたいです。
2003年8月17日(日) 天気:はれ
熊本がつくばに対して決定的に軍配をあげるのは、夏に過ごしやすいということです。今年みたいにいつ梅雨が終わったのかわかんないような湿っぽい年でも関東のあたりみたいに外に出た途端水死するのではと思わせるように湿っぽくはなりません。このことはちゃんと日陰になって風があれば午後の一番暑いときでもクーラーなんてなしで楽々昼寝ができることを意味します。街のど真ん中みたいにアスファルトの照り返しがすごいところはさすがに辛いでしょうが、ちょっと街外れなら大丈夫、ということで。つくばのアパートみたいに向こうに林が広がっているような場所で昼間はとても耐えられん、というのとはワケが違いますから。

というわけで、嫌々上りの「九州」に接続する列車に乗り込むのです。
2003年8月18日(月) 天気:前線を追い越して
帰ってきました。空いた日付のぶんはあとでfill予定です。
2003年8月19日(火) 天気:くもりらしい
たまに雨がぱらついたり。

SpilocorのMittelって切れやすいと思いません?今日の練習でも切れました。Stalkに張り替えましたが。
2003年8月20日(水) 天気:くもり
涼しいです。

書棚に立ててあるこれの著者が「ブゥトン」に見えました。

そんなあなたに米坂線(略
2003年8月21日(木) 天気:はれ
さまーはずかむばっくあげん。

infoseekのCGIまわりでたまに403が返る不具合が出ていたので、しばらく更新できませんでした。今は直っています。ここ数日サーバメンテがあっていたようなのでその時に設定変えちゃったのでしょうか。ファイル所有者の問題かと思ったのですが、手許の(たぶんinfoseekとはかなり異なる)環境では状況は再現できず。
2003年8月22日(金) 天気:しめはれ
見上げる空には灰色に湿度を運んでくるむら雲をとおして午後の太陽が黄色く、まあるく見えていました。どうしてこう、たいして暑くもないくせに常に湿っぽいという意味において東アジア近辺で最低と思われる夏を過ごさなければならないこの地方に日本人は首都を置いたのでしょう。全く理解できません。湿っぽさをしのぐためのクーラーの使いすぎで環境に悪い東京なんて場所は今すぐ放棄して熊本に遷都しましょう。さあしよう今しようすぐしよう。
2003年8月23日(土) 天気:不快指数
健康で文化的な最低限の生活を送るのが困難な湿度だと思います。

『10代が学ぶ株売買・起業体験 「賢い消費者目指せ」 』という見出しでした。「消費者」というのがこの場合「金融商品の消費者」だということに本文を読むまで思い至らなかったのです。もっとプロレタリアートにやさしい見出しにしてほしいです。
2003年8月24日(日) 天気:あつい
ユニクロで裾上げを頼んだら1時間かかりました。
2003年8月25日(月) 天気:はれ
西武あたりのお店はどこもすっかり新作秋物の装いですが、残暑は厳しいという予測が出ています。アパレル業界がこのへんに敏感に対応できないと「異常気象による百貨店の売り上げ落ち込み」なんて問題はなかなか解決できないのではないでしょうか。
2003年8月26日(火) 天気:くもり→夜になって雨
さっきぱらついてたんですけど、本格的に降ってきました。

帰省のお土産で鴎の卵(小さい奴)を貰いました。今年の夏は北の方に行けなかったなぁ…。や、10月に札幌行くからいいか。
※乗り鉄の暇があるとは思えんが
2003年8月27日(水) 天気:すがすがしくてとてもよい
/.-JからACがいなくなれば地球は平和になるのにと時々思います。スラドを喧嘩売る場所と思っているだろうというのは別にいいとしても、喧嘩の売り方に芸がないのがまず許せない。「話を脱線させるための趣旨と無関係な揚げ足取り」という名のアジノモトを毎トピックごとにぶっかけて回る阿呆を「Anonymous Coward」と呼んでいいものでしょうか。¥

「イリヤ」全四巻を並べてみたところ、背表紙のタイトルの色が二巻だけ薄いのに気づきました。ていうか黒が薄い。日焼けとかいう感じじゃないです。
2003年8月28日(木) 天気:くもり
じきに雨降りそう。

昨晩は流山に戻ったので、今朝はいつものように親の車で取手経由です。利根川沿いの田んぼはすっかり稲穂が頭を垂れていました(中身の質までは知りません)。このあたりは早稲ですが、今年は五月ごろは関東は結構天気がよかったし、そのぶん生育状況には貯金があるように見えます。いや、これで夏の天気もよかったら豊作だったかもしれないんですが。
2003年8月29日(金) 天気:はれ
スーパーの前で、買い物にきていた小学校中学年くらいの女の子が母親に「そうですか、ネッチュウショウになりますか!」なんて言ってました。リンドグレーンあたりに出てきそうなおませさんです。

HTTPサーバのログをlessして、最終行まで飛んだときのtopの画面です(lessは行数カウント中)
2003年8月30日(土) 天気:くもり
明日でかけようかどうか迷っています。天気悪そうだし。18きっぷの最後の一日分を消費できそうな最後の日。

駄目元で頼んでみたら下り「信州」が取れました。逝ってきます。
2003年8月31日(日) 天気:various weather(but fine/snow)
新宿〜松本〜新島々〜松本〜長野〜新井〜新潟〜坂町〜米沢=郡山〜(以下略)。

早朝の松本電鉄は烈しく萌えでした。りんご畑ではりんごが色づいていて、裏庭には熟れすぎたトマトがいっぱい捨ててあって、笑い出したくなるくらい朝顔が咲いていて、早朝の新島々駅そばのセブンで買って待合室で食べたハンバーグ弁当はいつも食べるコンビニ弁当の3倍くらいおいしくて、今度は絶対冬に行きます。あの風景が、無人駅の待合室ごとに沿線高校の学園祭の手作りポスターが風にはためいて別に雪が深いわけでもない、ただ寒いだけの松本盆地で厳しく聳える北アの雪山をバックにしているそのさまを想像するだけでご飯三杯は。これだから乗り鉄は止められません。

篠ノ井線のスイッチバック三兄弟はまず羽尾でEF64-0重連のタンク専貨を追い抜き、姨捨で減速したと思ったら引き上げ線にいた松本行と並んで構内に同時進入で交換、桑ノ原で待避に入り、上り「みすず」と交換。幸せ光線だだ漏れ状態でした。「信州」で眠れなかったので松本発車直後からぐうぐう寝ていたのですが、聖高原を発車した瞬間に目が覚めたのです。スイッチバックは体が覚えているのだろうと思いながらトンネルを抜けた瞬間、目線の高さで終わっている雲の下に薄日を浴びて広がる長野盆地の前景として引き上げ線で待っているタキ1000と重連の直流電機!姨捨の昔からのたたずまいとそこに並んで進入する二編成の長野色の115系、そして静まり返った桑ノ原の引き上げ線から期待を持って見上げる本線を颯爽と駆け上って行く快速電車!あまりに幸せだったので長野からこのまま新幹線で帰ってもいい、と思ったほどです(財布の中身と相談して止めましたが)。その先、雨が強くなってきた二本木でももちろんちゃんとスイッチバックが待っています。この夏、どうにも不足していたスイッチバック分を完全に補充できました。

坂町で待っていたのはキハ52の後にキハ47が続く二両編成です。乗ってから気づいたのですが、このあたりのキハ52は二段昇降窓のままなんですね。盛岡の連中は全部一段上昇の奴に換装されているので、塗装を除くと外見がオリジナルに一番近いのは新潟のキハ52だ、ということになります。製造銘板から読み取ると今年で製造38年、人間なら第二の人生ももうとっくにリタイアしている車両ですが、整備がいいせいかあまり古びた印象を受けません。たださすがに寄る年波には勝てないのか、加速のたびに後ろの47に押されてごっつんごっつん衝動がありました。米坂線は大昔、冬に一度乗ったきりですが、その時はけっこう混んでいた上に夜行からの乗り継ぎで、ほとんど寝ていたのです。今回はじめて真面目に車窓を眺めましたが、小国から羽前椿までの間はもう山の中と表現するのが陳腐に思えるくらいの山の中でした。ともあれ、これも不足していた国鉄気動車分を存分に補充できたので満足です。

土浦からのバスの乗り継ぎのことなどを考えて米沢から福島を経て郡山までは何か銀色のししゃもみたいのを使ったりしましたがそんなに面白くなかったのでどうでもいいです。四駅連続のスイッチバックがなくなったとはいえ、板谷峠は普通列車で越えるに限ります。

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