| 2003年2月1日(土) 天気:いいてんき |
| 室内の風呂釜が凍ります…>うちのアパート 読書力は読書量に対しておおむねlogで増大するきがします(読書内容、には必ずしも比例しません。する類の本もあるでしょうが)。まだ喋れないくらいのうちからずっと本に触れ続けているのが一番、ということになるでしょうか。で、読書力は思考力と想像力と創造性と表現力に明らかにプラスに作用します(注意:読書力「だけが」これらを涵養するものでは決してない)なので私がもし先生でこういう時間を設けろ、といわれたらまず「何を読ませよう」とあれこれ考えて楽しむでしょう。きょうびの中学生が食いついてくれそうな本を探してまず片っ端から乱読しまくることと思います。このストーリーに対してネガティブな発言をしてる人はほんとうはそれがムダと思っていたりするわけではなくて、きっと本を読むのが嫌いなだけです。 ※そういう人に対しては「いいからもっと読め」としかいいようがない。 あと、「自分は本は読むけど他人には読めと勧めない」という主張は理解できません。そういうのは本当に本を読んでいると言えるのかしら?いえ、そういう人から見れば私は本を「偏愛」してるようにしか見えないのかもしれないけど。 |
| 2003年2月2日(日) 天気:やっぱりいいてんき |
| うたた寝していたら「ダイソー店内で変な商品を冷やかしていて唐突に二進時計を作ろうと思いたったがいくら探しても時計だけがどこにもない」という夢を見ました。代わりに買ってください(ぉ 地方ニュースヲチ。 揶揄するような書き方に見えなくもないので、これ書いた記者は今すぐ朝四時の青森FTに放り出されてきてください。ホントに寒いんだから。 「アホ・バカ 揺れる滋賀」だけ見て「アホとバカのどっちがひどいか」大揉めしている豊郷小学校ン年ン組の学級会を連想して「さすが関西と中京の緩衝地帯」などと思ったのは秘密です。教科書で方言の教材が出てきたときに先生がそういう話してたなあ。 この記事ではじめて朝の連ドラの名前と内容を知った… |
| 2003年2月3日(月) 天気:はれてるしあったかいし |
| 「指導要領にハ音記号追加」も是非希望します(沙耶16歳より) |
| 2003年2月4日(火) 天気:雪なんて降るの? |
| Originの調子がいまいちなのでKaleidaGraphを使うことにしてみたんですが、やっぱりなんかアレです。操作体系が無駄に渋すぎる気がする。 というわけで、お誕生日おめでとうございます。みんなやっぱり冷たいようですね。 |
| 2003年2月5日(水) 天気:ふらない |
| 嫌な夢を見ていた。具体的に書く気も起きないくらいばかばかしくて、しかも嫌な夢だった。ちょっと気になる、とか、微妙にさびしい、とか、起きてまともに生活していれば些細なことで、しかしたまに見るこういう類の夢はそういった感情をストレートに増幅してしまう。 少なくとも言葉を介した対人関係はデジタルなものでしかない。いや、デジタルな部分がある、というくらいの表現にしておこうか。言わなかったらゼロ。言ったら1。言っても通じなかったらゼロ。そういうつもりはないのに相手が怒ったら1。だから言っても言わなくてもどっちでもいい、という局面では人は最終的には判断を「増幅する」。言うか、言わないかのどちらかを選ぶしかないから。0.1くらいのことでも、言ってしまったらそれは言ってしまったそのことで1に増幅される。女子中学生は手作りチョコをあげることで0.3だか0.4だかを無理矢理1にする。男子中学生はチョコを貰えなかったことで3だの7だのをゼロにされる。また、なんでも言ってしまえばいい、というコンセプトはいつか破綻する。ものごとが自分にとって完全にゼロであることなんて滅多にないし、それでも「気づいたことは何でも言える」人がいるとすればそれは最初からひどく鈍感というだけだ。 0.1が積もっていく。10回同じことが重なればそれは1.0だ。それでも人はそのことを言う機会を逸してしまう。最初の0.1で判断保留してしまった過去の自分に引きずられてしまうのだ。1.0はじきに2.5になり37.3になり、それがネガティブなものであればきっといつかぶち切れてしまって対人関係が終わる。故障が重なって爆発飛散してしまうようなものだ。言葉より万能で、微調整の利くものがあれば人はきっとそれを使ってコミュニケートするだろう。でも、誰にだって通じるそんなものは古今東西、あったためしがない。 大叔母の遺したユングの本をむかし読みまくっていたおかげでこう考えるのだろうと思う。夢はそんな0.1を勝手に増幅する。30を平気で200くらいにしてしまう。そうだと判ってしまうと、夢とは、ただ単に悪夢でしかないのではないだろうか?そのうち訪れるであろう事故を前もって見せつけられてしまうようなものだ。たとえば免許更新時に運転免許センターで脅されるのに似て、しかももっと性質の悪い。自分が殺されたり世界が滅亡したりするより性質の悪い夢だ。現実と地続きな、それは悪夢の正夢。そしてそんな夢に対しては、言葉はたぶんいつだって、どうすることもできない。 |
| 2003年2月6日(木) 天気:はれてるよ |
| 女鹿ライナー(羽越本線通のあなたはこれをちゃんと「めがらいなー」と読めなければなりません。常識ですね)に乗りました。ホントはドリーム号の間合い運用の奴に乗りたかったんですが、センターが1224だったなと思って行ってみたらいないんですもの。 タイヤが縦に4つあるのでどういう乗り心地かしらと思っていましたが、路面のでこぼこを計4回拾ってしまうので下道だと小さな振動が多いです。車内は…バリアフリーとか言うておきながら1F通路と椅子の間に段差ってどういうことよ。前に乗ったおじいさんの背中を押してあげる羽目になりました。2Fに乗りましたが、座席はE231のクロスシートのように固くてシートピッチも狭いのであんまり居住性がよくありません。窓は半分天井に回り込んでますが、曲線部分が少ないのでクハ415-1901や湘新直通線の客車もどきみたいに窓の写り込みが気持ち悪かったりはしません。天井は荷物棚があるぶんかなり低いです。高い視線から見下ろすと植え込みのど真ん中にはまり込んだゴミのつまったコンビニ袋や街路樹にからまったビデオテープの切れ端などが目に入ります。高速だと防音壁の上に頭一つ出せるので、圏央道やTX八潮駅の工事状況、北綾瀬の営団車庫などが見えるのは楽しかったです。ハイデッカー車が普及し始めたころはずいぶん背の高い車両だな〜と思っていたのですが、日本橋口についてこちらと並んでいるのを見るとなんだか小さく見えるのでした。 |
| 2003年2月7日(金) 天気:はれはれはれ |
手元のUltra1/Solaris8マシンは幽霊であることが判明しました(マシン名は変えてあります)。
そしてリターンキーを押すと、そこには…(以下未完) ※念のため:
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| 2003年2月8日(土) 天気:いい |
| わー、 ダイソーで民謡のCD買ってきた。先日ぼんやり聞いていたNHKの高校講座の音楽でハンヤ節の伝播の話を聞いたので興味を持ってそれで買ってきたのだけど、今は刈干切唄を無限リピート中。たぶん、バッハの無伴奏曲を自分一人のために弾いているのと、きっと同じ音楽。目をつぶるだけで去年の夏に行った九州山地の深い深い山波が見える。目も眩むような谷を挟んで山があって、その向こうにまた山が見えてその向こうにも山が続いている。そういうところで、たった一人で唄っている。そういうきがする。 |
| 2003年2月9日(日) 天気:最高気温17℃のヨテーイ |
| つまり、あわてて洗濯開始。 今日もお金がないのに勝田に行ってくるのです。 帰ってきました。トヨコミの茨響の椿姫です。 #おーい、去年の秋定から更新がないぞ〜。 ひたちなか文化って客が入るとひびきませんね。ピットに入った分オケの音がステージに乗ってる時よりまとまって聞こえてたのも何かあれです。あとヴァイオリンは「走りやすいパターン」でお約束のように走るの絶対禁止。考えて弾いてほしい。何度指揮者が左手で押さえてたか。あと、いくつかの場所でオケの音が声の引き立て役に回れてなかったのもかえすがえす残念です。平たくいうと音がでかすぎです。物理的音量のことじゃなくて、声を消してしまうような「でかい音色」だったと言っているのです。「上手いと思われているオケ」と「ほんとうに上手いオケ」の差はそういう(多分、細かい)ところに現われると思うのです。「上手い人」と「上手いオケプレイヤー」の差、と言ってもいい。そしてその「上手いオケプレイヤー」になるために、例えばコンチェルトをさくさく弾けるような能力は多分ちっとも必要ではありません。 ヴィオラという楽器では上に書いたような事情が顕著です。存在理由がそもそも合奏楽器に特化したものである以上、「上手いヴィオラ弾き」とはまず「上手いオケプレイヤー」を意味するものでなければなりません。でも「上手いオケプレイヤー」になるための、誰にでも手が届くような確立したメソッドなんてないし、だから世の人は「上手いヴァイオリン奏者」のイメージのそれをヴィオラに読み替えたあげく結局「やっぱりヴィオラ弾きは上手くなくていい」などと思い込むことになるのです。 なんでオペラ鑑賞記がヴィオラの話になるんだって。いや、ヴィオレッタつながりってことで。 |
| 2003年2月10日(月) 天気:脳天気な天気 |
| 松美池あたりにいっぱいいる奴のことです。あと、真夏では一日のうちで一番暑くなります。頭一文字を取ると沼地にいっぱいいて「スタンド・バイ・ミー」になるアレのことになります。勉強になりましたね。 冗談はこれくらいにして。 屁のつっぱりにもならない記事だと思う。何の結論も得られないし、これが果たして一般的な話かというと違うだろうと思う。あたりまえすぎる話は実際にあたりまえなものではないはずだから。つまり、何を言いたいのかわからない。 ここで紹介されている「木村玲子さん」(仮名だ)の今までの人生を0と1で表現してみよう。そうすると大体こんなかんじだったのではないか。00010101000010010001010000。0はもっとずっと多いのかも知れないけれど、あらゆることがすべて悪い方にしか倒れないなんてケースは例外でしかない(悪い方に倒れやすい、ということをさっぴいても)。でも記事は上の0と1の羅列から1を除いて書いてしまっている。そう読める。あれも駄目、これも駄目。それも駄目でこちらも駄目。おまけに何もしないのも駄目。唯一残された1が東京での気ままな暮らし、という地方の疎外の問題をはらんだものであることにも注意しよう。ひとりの女性の生き方の問題がいつのまにか都会の話にすり替えられているのだ。さて、今度は書き手の方の人生を0と1で書いてみよう。1の数は木村玲子さんのそれよりずっと多いのではないだろうか。プロフィールを見る限りそういう気がする。で、そういう人間が0ばかりしか描かない記事を書く。せめて同情のポーズだけでもしてやればいいのに、新聞屋というのはこういう記事でこそ中立精神を発揮してしまうものらしい。そこがいやらしい。そういう文章はよくて読み手に無力感を与えるだけのものだ。「それが何か?」という反応すら面倒くさくなって記事は記憶の彼方へと追いやられる。木村玲子さんの0は増える一方だ。 |
| 2003年2月11日(火) 天気:あめ |
| 昼過ぎには上がったけど。 ものすごいとしか表現しようのない令嬢に生まれたかったと思うことがある。祥子さまみたいに。そしたらいくらでも我侭が言えて、声を荒げてもわけもなくいらついてもみんなそういうものだ、と思ってくれるだろうから。今の日本で、変わっていることを無条件で認めてもらえるのはたぶんそういう身分の人だけだ。そうでなければ、変わっていることを認めてもらうのとひきかえに何か疎外されるにきまっているから。もちろん「金持ちだから」ということによる疎外はあるかもしれない。しかし金持ちにとって貧乏人のやっかみにどれほどのことがあろう。この「金持ち」というのはつまり「強い」ということだ。つまり、勝手なことをやらかしても、強いから、許すのだ。相手の「勝手なところ」を許容するのは相手の人間性を認めたからではない。 日本人は(いや日本人に限らず、だろうが)いつだって「多様な価値観」を認めてなんかいない。ちっとも。ただ、変な価値観を持った人間が自分より強いから、そういうものだ、と諦めているだけのことだ。たぶん鎌倉の時代からそうだった。最初は武士が強かった。ついで、強いものが武士になった。それから一番強い武士が出てきた。その武士より官軍の方が強かった。そして、アメリカはもっと強かった。ただそれだけのこと。戦争に負けた日本人が昨日まで敵だったコーンパイプの毛唐にへこへこと媚び諂うことができたのは、アメリカの理想としていた民主主義をあっさり受容できたのは何のことはない、そこに「日本人のアイデンティティ」なんてのとはまるで別の基準が作動していたからにすぎない。今だってそうだ。韓国や中国にへこへこしているように見えるのは韓国や中国が怖いからではない。国内外の圧力という「強いもの、口やかましいもの」の言うことを聞いているだけだ。強いものにとりあえずつき従うという行動パターンはあたりまえのことのようでいてその実、いつだって文句をつけてきた当の相手のことなんかまるで考えちゃいないものだ。自分の気持ちを無視された相手はいったいどうすればいい。 で、話をいきなり戻すのだけれど、祥子さまってそういうのにうんざりしていたんじゃないかな、って思うのだ。 |
| 2003年2月12日(水) 天気:灰色の板のような雲が覆って |
| 北の地平の方の空は冬の色にうすくて、その先の雪をかぶった日光と那須の連山が昼過ぎの日を浴びて手前のくらい筑波山と対照的に見えていました。風景画、ではなくてシュールレアリスムの静物画みたいに。 おめでとうございます。よかったです。茨城の兄弟も元気のようです。 見にくいことないです。スマートでいい感じだと思います。…デザインで印象ってかわりますよね。巡回してるサイトのデザインが変わると「あれ」と思うものです。 私はこうしています。tcsh です。 ※追記:しまった、cwdに*statなんてディレクトリがある場合を忘れてた…
ま、C-x g 展開の結果をコピペするだけでいいんですけど。 |
| 2003年2月13日(木) 天気:天空を冷えた灰色の板が |
| Webで引けるのはひとつ前の版だったかと。個人的には、紙媒体のものをいつでもどこでも参照できるよう持ち歩く、というのが理想ですがなんせやたら重いので。机の隣に電話ボックスについてるような電話帳を挟んでおいていつでも広げて見れる仕掛けが欲しいな、と思ったことは数知れませんが。電話帳のかわりに数学辞典と大辞林とWebsterのぶ厚いの挟んでおくのです。 大辞林を携帯している自分を想像して、高校の時に好きだった子が鞄に英和と和英と古語辞書を常に詰め込んでいて最高で年7回取っ手を壊していた(学校指定の鞄だったので、在学中は保証が利いた)のを少しだけ思い出しました。元気だろうか。 「風景を覚えていない」ことでむしろ、個々の旅を一度きりの、かけがえのない経験とできるのでは、なんて思ったり。目的地に向かう途上「ああ、いつも通りの景色だな」と思ってしまうことはその景色が特別すばらしいというものでなければなんだか日常に帰ってきたような気がして、ちょっとつまらないものなのです。 |
| 2003年2月14日(金) 天気:ゴディバの出そうな夕焼けだった(違 |
| あたしには出てこない予定。 バイト先のトイレにいつのまにかシャワートイレが入っていました。来賓やシンポジウムで使うエリアだけと思っていたのですが、紙代が惜しいのかそれとも座りすぎで痔になるくらい仕事しろということか。それにしても男性用トイレなのにビデがついてるのはなんかアレです。フラッシュが手動のままなのも何とも。 遅いお昼ご飯を買いにそばの香住に行ったら知り合いが寿司を並べていて声をかけられました。最近異動されたとのことで、入り口前で買ったばかりの納豆巻きとメンチカツのパックを開け、通行人に奇異の目で見られながら立ち食いするなんてホームレスな真似ができなくなってしまったわけです。香澄に併設のパン屋のチェーンの方に勤務だったと思ってたのですが、それともあれは手伝いなのかしら。 |
| 2003年2月15日(土) 天気:雨降るとかいってたのに |
| 能美市とか言ってみるてすと。 きれいな地名が好きです。具体的には咲来とか見沼とか谷田部とか高千穂とかです。「古くからある地名」というわけじゃなくて、そこに何か言葉そのものに関する美的感覚を感じることができる地名です。例えば「谷田部」だと、「や・た・べ」と発音したときの響きの変化が楽しいし、どこか土のにおいを含んだ北方系のひびき(八戸、とか、興部、とか)がする終わりかたも素敵なものです。この感覚で地名をひとつひとつ口に出して自分で噛みしめてみると、耳馴染みがなくてもきれいなものはきれいと言えるし、安直につけた地名はそこに人が居着いてその地名を自分の内なるものとして使い込んだものだ、と感じられないのであればやっぱり安っぽく聞こえます。多分に主観的なものですけど。北海道の地名なんかかなり主観が入っているかもしれない。適当につけた「西16線」だの「ペンケ」だのに何か感じるのは、そこに爾来から生活していた人がいたこと、ないしそこをがんばって開拓していった人がいたことを知っているから。他方、そこに現に人がたくさん住んでいて、古くから使われてきた地名がそこにあるのに、それでもそこに新たに「なんとかヶ丘」だの「ほげほげ台」だのという不動産屋受けだけを考えた裏側に金が見え隠れするようにつけてしまったその土地の呼び名に対しては、それをきれいだとは思えません。 …見沼と見沼用水の話を知ってる人なら「見沼区」という地名に反対する筋合いなどないだろうに。 |
| 2003年2月16日(日) 天気:自転車に跨った瞬間に落ちてくる水滴は何? |
| 金曜の晩は実家に戻っていました。1月の稚内行きの写真を妹に地図帳で説明しながら見せたら地図の九州のページを開いて日向灘あたりを手でなでながら「あー何てあったかいの」とかゆーておりました。宗谷岬の写真を見せたあとで稚内駅前の写真を見て「おー、都会じゃん」とのこと。血の繋がった人間は同じこと考えるものです。 下の兄がクリスマスプレゼントにくれたユニクロフリースが今ごろ手許に。普段から肩に色々かけることが多くて、擦れてしまうのであんまりフリースは着ないんですよね。普段着かなあ。実家ネタといえば両親の勤務先に入れたパソコンにゲームがインストールされてないらしく、「なんとかエラーが出るんだけどどうすればいいか」と聞かれて困りました。一度見てみれば判ることのはずなんですがどうしたもんだか。 そして今日は朝からパート練習、午後は合奏。午前中で喋り疲れました。日も沈んだ頃にいつしか雨も小降りになって、澄んだあい色の夕闇が雲の切れ間から見えたのがせめても美しかったです。 |
| 2003年2月17日(月) 天気:よろしい |
| サンフランシスコで市民の1/3を越える25万人の反戦デモ、だそうですが、それだけしかいなかったのかと思うのは筋違いなんでしょうか。市域は小さいんでしょうね。あの国には合併促進法なんてないんだろうし。 |
| 2003年2月18日(火) 天気:あめふってきた |
| ジャンドロンの無伴奏組曲の二番を聞いていて、最近この曲の装飾音符だのアーティキュレーションだの取り直したくなったのはこの演奏に飽きていたからだということを発見する。 「比布エレキバン(うちのIMEはちゃんとこう変換してくれます。偉い偉い)」より塗り薬系の方がわたしには利きます。体質ってこともないだろうから、これしきの磁力線ではどうにもならないくらい凝ってるということか。凝ってる部位全体にぺたっと張りつけられる薄くて軽くて湿布状の強力磁石とかないんでしょうか。あと静的に貼りつけてるだけだと磁力線の方向によってはかえって利きが悪くなるんではなんてことも思います。一定時間ごとに磁場が反転するような磁性体なんてのは作れないんでしょうか。何が困るって、楽器が練習できないので。 |
| 2003年2月19日(水) 天気:はれてたけど夜半には雨が |
| 肩痛いとかいいつつ今日も練習はしました。ジャンドロンが組曲第五番でスコルダトゥーラしてたことに今更ながらに気づいてA線を二度下げてみようかと思っていたり。あの曲でバッハが指定した通り一番弦をGに下げるスコルダトゥーラは楽器がかなり渋い音になる反面、ヴァイオリン族の楽器の特性である「響きやすさ」を損っているきがします。組曲がその楽器のために書かれたオリジナルのそれであるチェロならともかく、音響特性上の制約(音域とそれが要求する音量に対して楽器が小さすぎるという)を抱えているヴィオラではこれはかなりネックになります。一番弦のテンションを緩めることでいわゆる「ヴィオラっぽい」甲高くてでも効果的な音楽表現ができるはずの音色を損なうことに加えて、開放弦の共鳴を使える音が一つ減るのですから。それでも、オリジナルのチューニングとスコルダトゥーラのそれを比べてどっちがいいか比べてみる気になったのはその「渋さ」を自分はどれだけ表現できるのかな、と思ったからです。ヴィオラ的に見て上の方の音域で、オクターヴも下の開放弦の共鳴を使えるとして、ヴィオラ弾きである自分はそのシチュエーションで何ができるか。これは結構困難で、しかも興味深い問題だろうと思います。 |
| 2003年2月20日(木) 天気:雨降って晴れて曇って |
| イングランドで最も多い天気予報は「晴れ時々曇りところによって雨または雪」なんだそうだ。Mr.ビーンの野外ロケものだと、晴れてるのか曇ってるのかさっぱり判らない天気の時があるのだけど、国民性と天気って相関あるんだろうな。 明治以来の日本がどこか繊細さを失って能天気になっているとすればそれは冬場の東京の天気のせいだろう。ぱさぱさと晴れついた(←「晴れ」と「焦げついた」が合わさった造語)風景はけして嫌いではないのだけど、それをいつしかビルが、電線が、広告塔が覆って、気がつくと東京の街並みは春だろうが秋だろうがいつだって冬みたいに、季節のうつろいを感じさせないものになってしまっている。団地ではあったけれど、それでも玄関から見えるところにちゃんと森があって自然のものである新緑や紅葉を少しでも感じることができて、小学校の通学路では家の甍できじばとが鳴いているのがいつだって聞こえていた場所で生まれ育ってみると、東京という街は風情に欠けるだけの場所だ。きっとそういう場所を見ることしか知らない人は「春の夜の夢ばかりなる手枕に」なんて上の句を聞いてもあの春の宵の、冬のそれとは明らかに異なる濃密な空気、その呼び起こすひそやかな性的興奮なんてのを体で覚ゆることができないのだろうな、と思う。 |
| 2003年2月21日(金) 天気:はれれ |
| 某所で「黄薔薇さまみたいだ」と言われました。虫歯は多いんですけど…(そういう話じゃありません) |
| 2003年2月22日(土) 天気:くもり→あめ |
| 上野のアーリーエクスプレスで、コーヒーに砂糖と塩をてんこもりに入れてみるてすと。 …目が覚めましたとさ。 |
| 2003年2月23日(日) 天気:冬晴れ |
| なんですが、頭の中は「マリみて」最新刊「子羊たちの休暇」と同じ夏の避暑地になっております。休暇っていったら自然の中で何もせずにごろごろ、という過ごし方はお金持ちのものでしたか。小さい頃は阿蘇に行ったら山を見ながらずっとごろごろしてたもんなあ。どこかに行っても列車から風景を見ながらぼうっとしてるだけなのも、そういうのが原因なのかも。 |
| 2003年2月24日(月) 天気:洗濯でけへん |
| 部屋に戻ってきたんです。そしたらそしたらなんかやたら本がいっぱいあって足の踏み場もないんです。で、よく見たら自分の手にも買ってきたばかりの本の袋が下がってるんです。もうね、阿呆かと。馬鹿かと。おめーな、積ん読本が佃煮にするくらいあるのにこれ以上本を買うなと。読書ってのはもっと殺伐としてるべきなんだよ。図書館のカウンターで手垢に擦れた本の貸し出し順をめぐっていつ決闘になってもおかしくない。で、やっと自分に愛想を尽かし終えて読み始めるとこれがまた面白いんです。 …本がある限り、部屋にテレビなんていらない。これ最強。 ※しかし受信契約のステッカーを剥がしておくとNHKの集金人が部屋まで上がり込んでくるという諸刃の(略) |
| 2003年2月25日(火) 天気:きりのちはれ |
| 朝方は木々の枝が凍りついていました。日差しに暖められた小枝や葉の上からファーストフード店のコールドドリンクの氷みたいなのが滑りおちてぱちぱち歩道に跳ねています。 「通報しますた」(セキュリティホール memoより)。「私も使ってます」と再反論すれば面白いだろうと思います。もちろん「私も」「私も」と続々と名乗りが上がり、最初に使った奴が勝ちということになって一気にv6普及(ぉ¥ ※そうそう「exit」というホストがある時に nslookup がどう挙動するか気になるあまりやってみたことあるなあ。CNAME 切って。いえ、
とまあ、あっさり終了しておしまいでした。ls ではもちろん見えた。 それを言うと池澤夏樹の芥川賞受賞作が書けなくなってしまうのでダメなのです(違。抜け穴があるということじたいを「スティル・ライフ」で知りました。 |
| 2003年2月26日(水) 天気:はれた |
| Kaleidagraph のマクロには三項演算子 a ? b : c があります。FYI。 そんなに飛ばして走ってないだろうが(バナーのフラッシュに出てくる2300系参照) 301お姉さま(お遊びの館→マリみてお姉さま度チェック)、生まれながらのお姉さまで、例えると祥子さまなのだそうです。 …静さまのほうがいい(うるさい というわけでCSSいぢりしたり。ぢつは振り仮名だのコメントだのを入れていたことに今まで一体何人が気づいていらっしゃったことやら。 というわけでNN4.x系でこの日記がどう表示されるかにかんしてはあっさり非対応となったのでありました。スタイルシートをoffにするとたぶんそれなりに幸せになれます。読めなくなることはないと思います。 …というのもやっぱり悲しいので、適当にごまかして対策をするのです。…まだちょっと悲しい。 |
| 2003年2月27日(木) 天気:はれれ |
| 2ちゃんねる大王(http://page.freett.com/512kb/2chdaiou.htm)のAAキャラの造形がイケてるのを眺めながら、そもそもどうしてAAキャラが流行って、一般的になったのか考えた。いちばんの理由はたぶんそれはコピーが容易で(事実上)著作権フリーだからだろう。この条件は何かを「流行らせる」ためにはいい方法の一つだし、しかしこのことはそれが何らかの手段で「金儲けになる」ことを別に意味しない。「流行る(→売れる)」ことの要件が「ただで入手できる(→売れない)」なのだもの。 例えばヒマラヤの青いケシを人工栽培できたらそれは売りものにできるかもしれない。例えばそのへんに咲いてるたんぽぽやいぬのふぐり。これをどうやったら商売のネタにできるだろう。売り手じしんがが努力してそれに付加価値(マイナスイオンを出すたんぽぽ、花の直径が20センチあるいぬのふぐりなど)を加え与えるのでなければ、たんぽぽやいぬのふぐりは通常の(母集団が十分大きくて持続的な、という意味の)マーケットを持てない。「ただで、どこにでもある(誰でも入手できる)」の条件が壊れる場面でしかひとはそんなものに金まで出そうとは思わないし、AAキャラの場合はこの条件が壊れれるということはすなわち「入手したくなる」意欲じたいが損なわれることだ。 モナーやギコ猫をそのまま、雑木林のからすうりやあけびをもいでくるようにそのまま商標登録するなどというたくらみが一般に馬鹿げたこととしか認識されないのは、だからそういう理由だ。どこにでもあるものを囲い込んでおいて限定放出する、例えばそこにあった雑木林や澄んだ流れを重機でさんざ潰してからマンションを建てて周辺に公園と池を設置して数千万円で売りつけたりする大手不動産やゼネコンがそこに例えば「緑豊かな田園都市」などと銘打つそのキャッチコピーと同じ軽薄なマッチポンプを、そこに見てとることができてしまうからだ。ただのAAキャラに住宅のような価値はまるでないのに、商標権に礼をつくすだけのためにそれに金まで払う奴がいるわけがないのである。 |
| 2003年2月28日(金) 天気:早春晴れ |
| 霞んだむこうに日光の山が見える。それは冬の大気の、天頂にあってある領域の波長以外の可視光を選択的に吸収してしまうために結果透過光の青色に輝く空と同じく、光の強さによってではなく視点と対象の間に広がる大気に満ちた空間に含まれる塵の総量によって同じ理由により青くくすんでいる遠景の中からその雪に覆われた頂の白い反射が突き抜けているために今日は見えているのだった。もう少し空気がほこりっぽければ、たぶんあと2日も晴天が続けばだからまた見えなくなってしまうのだろう。冬のさなかには雪が降った翌日などはすきとおって寒さに張りつめた大気の先に女峰山の浸食された山ひだのなりを雪が覆っているさまが手に取るように見えたりしていたのだ。3月になって、春になって空気が濁ってくるときっとまた見えなくなってしまう。地平まで目を上げても、茫漠とした視界を受け止めてくれるのは少し手前にいつも続く筑波の山並みだけになる。そこに筑波山がいてくれるだけでもそれは嬉しいことなのだけれど、それでもちょっとさびしい。 |