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日記

過去日記


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2002年9月4日(水) 天気:雲多い
 はまなす(2308発)

 新潟の新日本海フェリーの発着するターミナルは2Fが待合室になっているのですが、待合スペースといわず、フロアのそこかしこに椅子が並べてあります。どこもかしこも白いつるつるの壁なのでどこもかしこもテレビの音が反響して落ちつきません。売店も閉まっています。このターミナルから出航する船は午前中に毎日運行の小樽行、夕方の敦賀行と今から乗船する深夜の苫小牧行が隔日での運行となっており、つまり1日に二本しかありません。なんだか稼働率が低い建物です。もっとも、本北連絡のフェリーにとっての最大の顧客は主としてトレーラーである大型貨物自動車であり、そちらでがっぽり儲けている会社側としてはあまり気にする問題でもないのでしょう。窓越しには白い船腹が見え、そのトレーラーの積降し作業の音がひびいてきます。今から乗ろうというこの船は昼前に敦賀を出航し、ここ新潟と、明日の朝秋田に寄港して夕方に苫小牧東に到着する便です。寄港地が複数あるのは国内の長距離フェリーではめずらしいのではないでしょうか。以前、苫小牧東から秋田まで利用したこともあるのですが、暇があれば通しで乗ってみたいものでもあります。新潟から秋田までの二等運賃は夏シーズンの繁忙期運賃でさえわずか3200円です(閑散期は3000円です。これでも最近値上げされたものです)。同じ区間を鉄道の夜行で行こうとすると寝台特急利用しか手がなく、新潟からの距離が300kmに満たない秋田まで1万近くかかってしまいますから、これは乗り得なのです。

 「ニューしらゆり」秋田港まで利用の二等船室はシーズン末期なりに利用客がおりました。それでもまだがらがらな部類に入ります。この船は雑魚寝スペースでもある程度の単位で貸切りができるようになっており(修学旅行などで利用するためでしょう)、普段はこのように行先ごとに部屋分けされています。船内にはロビーなど、結構人がおりましたから、苫小牧東までの船室はもっと混んでいたかもしれません。敦賀からの十数名の乗客は奥の方であらかた寝る体制に入っており、そこにぽつぽつと人が入ってきます。一人旅の外人さんも乗ってきます。友人どうしで車できたらしい女性客が修学旅行以来だぁ、とはしゃいでいます。出航後すぐに閉まってしまうはずの浴室にとっとと向かうと誰もいませんでしたが、体を洗っているうちに浴室営業時間の放送がドア越しに聞こえ、途端にわらわらと人が入ってきます。部屋に戻るとすぐ出航時間になります。デッキは深夜帯は閉鎖されてしまい、自販機コーナーの角窓から見ると信濃川河口の外突堤がか細く伸び、その先はもう真っ暗な海が広がるだけで佐渡も何も見えません。小腹が空いたのに新日本海フェリーにはカップ麺の自販機もないのです。退屈なので栗島くらいまでは見ようかとも思っていたのですが、翌日のこともあるのでそのまま雑魚寝にごろんと転がって、昨日からのウィスキーを舐めながら寝てしまうことにします。子供が廊下をどたどたかけずり回っていましたが、親がいるブースが遠くだと注意するのも面倒なものです。

 少し到着が遅れると放送があったのですがそれよりは早く、船は秋田港フェリーターミナルの岸壁に着岸体制に入りました。雄物川の河口につくられた港の水は茶色に濁って、突堤の先で日本海を濁しています。遠くに男鹿半島、東には太陽とその下の秋田の山々、ターミナルの小ぶりな建物から道一本向こうはJR貨物の秋田港貨物駅で、タンクとコンテナがどかどか転がっています。いつものように舷側が開き、タラップ操作の係員が時代がかったでっかいコントローラーをかかえた向こうに船内清掃のおばちゃんたちが待ちかまえ、それが近づいてきます。北東北は今年は例年になく涼しい、と聞いていたのですがもうすっかり強い日ざしのもとの朝の大気は寒い、というほどでもなく、建物を出て、さっさと土崎の駅に向かいます。待ちかまえていたタクシーが脇をかすめていきます。昨晩の新潟港は駅から遠いこともあり、深夜かつ時間的余裕がないこともあり(歩くと40分ほどかかることは以前やって、知っていましたから)タクシーを利用したのですが、ここからの最寄駅は秋田から奥羽本線でひとつ北の土崎で、徒歩で20分程度なのです。記憶のとおりに製氷会社の看板の出る裏道に入り、秋田港から先に伸びる秋田臨港鉄道という貨物路線の踏切を渡り、左手に折れて街の方に歩きます。すぐに国道7号線の幅広い道路と交差するのでここでまた左に折れ、少し行くと土崎駅の右矢印の標識がある交差点があります。街はまだ眠っていて、ロッテリアのまだ暗い店内に新メニューのポスターが見えています。折れた先は神社の敷地に沿ってカーヴして見通せませんが、そのカーヴを曲がると向こうにちょこんと、瀟洒なんだか安普請をサイデリアでごまかしてるんだかわからない駅舎が見えます。その脇の屋根つきの跨線橋の方がやけに立派に見えます。

 6時から営業のSPARを駅前に見つけ、待合室でのり弁当を腹に収めます。壁には土崎の地名の由来が書かれ、それによると雄物川の河口ふきんでの激しい流れのために川岸の「土が裂け」、それが土崎に転訛したとのことでした。改札には次に乗るべき男鹿線直通の列車の時間が出ています。男鹿線は秋田の3駅先の追分から分岐して男鹿半島の中心都市、男鹿に至る支線で、ここを乗りつぶすと後はJR東日本管内の未乗の在来線は田沢湖線だけになります。本数もそこそこあるのに今まで乗り残していたのは何となく乗車してやろうという魅力に乏しい気がしていたからですが、いざ残ってしまうと気になるというものです。少し前までは沿線の脇本にある油田から男鹿の先にあった貨物駅である船川港の精油所まで油槽列車が走っていました。産出量の減少とトラックへの移行により廃止になったのですが、油田から直接原油を運んでいた国内では唯一の列車でした。船川の石油備蓄基地のタンクの列はフェリーからも見ることができます。やがて駅そばのスタンドが開き、こっちにしてもよかったなと思っている間にまず秋田行きの上り改札が始まります。701系の車内は休日としては混んでいるようでした。

 次の男鹿線の列車はキハ40系列の4両編成でやってきます。朝日がまぶしく、進行方向右側のブラインドはあらかた降ろされています。通勤通学用にデッキが拡張されたり、すべてロングシートになった車両も混ざり、車内だけ見るとバラエティに富んでいます。次の上飯島の安普請の細いホームを過ぎるあたりからさっきの国道7号が近づいてきました。交通量は少なく、がらがらの市営バスが徐々に追い抜かれていきます。道路沿いには自動車販売店やラーメン屋などの郊外型店舗が続き、線路との間はごみだめと化した掘割のような小川です。典型的な地方都市の近郊の風景ですが、そういった店と小川の間の白い鉄パイプ製のフェンスがところどころ破れ、川に白く横木が突き出しています。雪捨てのために外しっぱなしになっているのでしょう。投げやりなさまが殺風景を際だたせます。追分を発車するとしばらく本線と併走し、くいっと防雪林の中に曲がります。

 海岸砂丘の上を松林が覆っています。その中を線路と道路が往きます。樹勢の弱った松林は色温度の高い光の下で侘びしく続いていました。そんな中を切り開いて住宅地があったりします。ちらちらと見える海のどこかにさっき乗り捨てたフェリーがそろそろ出航しているはずですが、なんだかまぶしくて船影は判別できません。交換設備のない駅はどれもさっきの上飯島、また昨日の越美北線の駅たちと同様に簡単そのものな駅です。恐らくは路線開業当時からある駅ではないのでしょう。北海道などでは昭和30年代に蒸気機関車牽引の列車より加減速の利くディーゼル列車の登場にともなって小さな駅や臨時乗降場が多数設置された、と聞いていますが、似たような事情で設けられたものなのかもしれません。二田で上り列車と行き違い、平日は高校生であふれると予想されるホームは今日はがらんとしています。部活らしい高校生が背中を丸めて本を読んでいます。

 天王という駅を過ぎるとすぐに大きな鉄橋にかかります。八郎潟の入口にかかる橋で、すぐ上流には堰の制御塔が立ち並び、その先には八郎潟調整池の水面が広がっているはずですが堰にはばまれてよく見えません。それもすぐのことでまた林と住宅地の中に戻ると船越です。交換設備をつぶして新しく建てられたらしい駅舎に工業高校のロゴの入った鞄を提げたラグビー部員の一団が消えてゆき、車内はすっかり静かになってしまいます。その次が脇本で、駅の手前、右手の田んぼの中にガスタンクらしき施設があり、そこが油田なのだと思われました。交換設備は残っていますが、最近まで貨車が転がっていたはずの駅構内はもうがらんとして、知らなければここが国内唯一の石油積出駅だったとは誰も判らないでしょう。

 ここから寒風山のすそ野を抜けます。寒風山は日本列島の内陸弧に位置する死火山で、奥羽本線からはよく判別できるのですが近くで見ると周りの山と比べてそんなに高くないせいで、どれだか判りづらい気がします。けわしくなる山の中にわけ入り、車窓をその火山らしい丸っこい山肌が右往左往します。あとは道路ばかりがやけに立派で、谷筋に田んぼがあるばかりの無人地帯です。日差しも暑くなってきて、眠いばかりなのですが一応まだ見ぬ車窓風景なのでしかと眺めておきます。短いトンネルを抜けるとふっと開けた車窓に戻ります。海辺の街はずれといったところでしょうか。さっきは進行方向右側だった太陽は左側に移ってきています。海が見えそうで見えない男鹿市の中心部、船川の街に突っ込むとすぐ終点でした。駅の建物はそれなりに大きく、跨線橋はないもののホームも両面ホームのものがあります。平行して伸びる側線は入れ替えに使用しているらしい一部を除き、もう錆びついていました。
2002年9月5日(木) 天気:しめっぽい
*BSD Diary Linksでfabicon.ico が利いているのに気づきました。萌え〜。
※IE以外でも対応UAあるのかなあ

以前はこの駅は地名をとって船川といい、路線名もそのまま船川線でした。駅前には古い土産物屋やさびれたホテルが立ちならび、かつて男鹿半島の観光の要衝であったことが忍ばれます。十年ちょっと前までは上野から直通の夜行急行も設定されていましたが、現在男鹿線を走るのは普通列車のみ、改札前の椅子に座る顔ぶれもすっかり秋田までの近郊鉄道の姿のそれのようです。折り返しの列車内ではおばちゃん連中が結構乗ってきたので喧しくなってきました。光る海から遠ざかり、また田んぼの中をうねって寒風山を目指し、八郎潟が見えないか目をこらします。松林の中にビニールシートの青色がやけに目につきました。恐らく立ち枯れた松を倒した丸太を上から覆っているのだろうと思われます。ビニールで密閉して蒸して松食虫を殺すとか、殺虫剤を入れてあるとか、何か理由があるのでしょうか。すぐ運び出してしまえばいいものだとは思うのですが、木が立ち並ぶ中では搬出もやりにくいのでしょう。少しうとうとします。向こうでは親子連れが今日は映画見てから、何をしようか、と話しています。奥羽本線に入ってからさらに乗客が増え、新幹線ができてすっかり奇麗になった秋田駅のホームには4両分の乗客がどばっと吐き出されました。わずか4分の接続の新庄行快速「こまくさ2号」に乗るため、その中を急ぎます。

「こまくさ」という列車名はJR化後に新設された列車名のなかで好きな部類に入るものです。1992年に奥羽本線の福島〜山形間が新在直通化され、それまで上野〜秋田間を奥羽本線経由でむすんでいた特急が山形で分断された際、切り離された山形〜秋田間の特急列車名として登場したものです。1997年に新幹線電車が秋田までくるようになってから2年間近くは、秋田〜大曲間の標準軌/狭軌平行区間では標準軌電車のE3系、在来線特急の485系の両方が走るようになっていました。1999年に新在直通区間が山形から新庄まで延長されたおり、運転区間の短くなる「こまくさ」は701系使用の快速に格下げになり、今日に至っています。JRとしては山形/秋田両新幹線に挟まれた谷間みたいな地域で特急なんかやってらんない、ということなのでしょうが、18きっぷユーザにとっては嬉しいことに、従来普通列車の本数が非常に少なかった奥羽本線のこの区間(特に県境の真室川〜院内間)を直通する利用可能な(しかも速い!)列車が3往復も増えたことになります。もちろんこれは地元の人にとっても事情は同じで、2両編成の車内はもういっぱいです。この「こまくさ」は701系になった折りに地元でちょっとした物議をかもし、地元の陳情団から「ロングシートはひどい」とJRに文句がつく羽目になりました。そのために、今乗りこんだ車内は田沢湖線に導入された標準軌用の701系である5000番台とほとんど同様に、千鳥足配置のクロスシートに換装されています。これだけ混んでしまえば同じという気もします。できれば羽越線方のように付随車を入れて3両編成で欲しいところですが、電動車が1両のままでは及位〜院内間の勾配はきついかもしれません。

秋田運転所の向こうに田んぼが広がっています。駅はどこも標準軌の線路が構内をまず貫き、一部削られたホームの上ににわかづくりの狭い跨線橋という構造で、あまり面白くありません。新在直通の折に跨線橋を設けたのだろうかとも思いましたがそれにしては古いようなので、東北新幹線開業と田沢湖線電化の折に特急列車の増加にあわせて設置されたものかもしれません。羽後境までで短距離利用の乗客はずいぶん降りたのですがそれでもまだ空席すら出来ません。尾お荷物をかかえた人が多く、まさかこれでみんな新庄まで行くのではあるまいと少し危惧します。もともと秋田から仙台、東京方面に出るには横手から分岐する非電化の北上線を経由するのが距離的には一番近く、かつて仙台〜秋田間にあった特急もそのルートを取っていましたが(現在でも、秋田と仙台の間に設定されている貨物列車は北上線を経由しています)、東京に出るのにはそちらを通る人もまだ多いと聞いたこともありますが、この列車からの北上線の接続は悪いのです。昔ながらの特急のルートがいまだに命脈を保っているのでしょうか。大曲でそれなりに降りたかわりに、また結構乗ってきました。「こまち」から乗り継いだ雰囲気の人たちは横手か湯沢に向かうのでしょう。たまたまボックスの席が空いたので座ります。

とたんに線路が貧弱になった気がします。もしかしたら枕木も木のままかもしれません。駅が近づくと構内のカーブのためにがくん、と減速します。と、隣の窓側のビジネスマンらしい人があっ、と荷物をまとめ、前の席でさっきから飲んだくれて騒いでいたじっちゃん二人連れにどうも、と声をかけてそそくさと立ち上がってしまいます。まだですよ、と声をかけようにも人込みの中をドアの方に行ってしまったので、仕方なく(内心喜んで)窓側に移ります。眼前を飯詰の駅名表がゆっくり流れていきます。次の停車駅である横手まではあと11キロ、中央線でいえば東京から新宿までよりも距離があるんですが。以前ロングシートだったときに頭でこすれた跡がアクリルコートされた窓のさんに残っています。背もたれは少し低いものの、最近のE231のものと同様の座りごこちで、シートピッチも通常のものより広いので快適です。その広い分、折畳式の机まで作りつけてありました。

横手で何かあるのか、と思ったのですが、降りる人と同じくらいまた乗ってきます。車内でもさすがにわあ、混むねえと声があります。北上線が分かれていきます。前の席のじっちゃん達はそういえばこのへんに立派な郷土展示館が出来てねえ、入館料100円だか200円だか取られるんだよ、と大声で話しています。こういう人たちを東京に連れてきたら可哀相かろう、と思います。窓の外では相変わらず続く田んぼの間に果樹園が広がるようになり、青い葉の間でりんごがわずかに色づきつつありました。十文字、湯沢と停車駅ごとに相変わらず乗る人があります。特に、若い人たちが目につきます。ふと頭上を見上げると、ロングシートだった時にはぶら下がっていたはずのつり革がありません。矩形の止め具だけが空しく張り付いた横棒がただ伸びているだけです。これは混雑したらちょっと大変かも、と思います。シートの背もたれには掴手もついているのですが、脇で立っている若者のカップルは文字どおり何だか捉まりどころがない、といった顔をしています。すっかり山奥の横堀でもまだ乗車があります。さすがに何かあるのか、と時刻表を開くと今日の日付で「新庄まつり2号」といった臨時列車の設定を見つけました。秋田からも遊びに行く人がいるということは、人気があるお祭りなのでしょう。

列車は峠越えに入ります。線路は山筋を右往左往します。満員の列車もそれに忠実に揺さぶられます。倦怠感が車内に満ちみちています。横堀から次の真室川までは時刻表では29分かかることになっています。30分ちかくノンストップというのはさすが特急のダイヤを引き継いだ列車の面目たるところですが、いくらなんでも通勤電車では正直疲れるという奴です。立っている人には悪いのですがしばらく眠り、減速の衝撃に目を開けると何と、近づいてくる真室川のプラットホームには今までのどの駅よりも人があふれています。通勤ラッシュに慣れている人にはそれでも無理ではない人数に見えますが、朝のラッシュ時というのは「自分から率先して詰めない限り電車が遅れて自分に影響がふりかかってくる」という暗黙の了解のもとにすべての乗客が行動することによってはじめてあの最密充填が可能になるものなので、このあたりの人たちにそこまでの覚悟があるかどうか。案の定、ドアが開いたとたんに大変なことになりました。乗れない、もう無理などとさんざばたばたした挙げ句、少し遅れてやっとドアが閉まります。乗るのを諦めた若者の一行が諦め顔で列車を見送ります。次の新庄行は2時間近く後になります。ぱあっと風景が開け、街の中に入ると同時に駅構内が広がり、満員の列車は新庄の行き止まりの方のホームにすべり込みました。

大多数の人はあたふたと改札口に向かい、大荷物をかかえた組は東京行の特急が待つ広軌線のホームへ走ります。その間で駅員が特急券を売るためにわめいています。縦に長いHの字の形をしたホームの、横棒の部分の脇にちょうど改札がある新庄駅はすべての乗り換えが階段なしで済ませられるすぐれた構造になっているのですが、これの最大の欠点は人の動線が集中してしまうとひどくごった返すことで、今まで何度か新庄駅を利用しましたがいつも人の数の割に混んでいる気がします。いや、いつでも活気があるように見えるのでこのほうがいいのかもしれませんが。その中に紛れた18きっぷ利用者は大多数が特急の後に入る山形行の普通に並び、到着した隣のホームにいる鳴子温泉行のキハ110に荷物を置いて駅弁でも探そうという人はほんのわずかでした。
2002年9月6日(金) 天気:湿い湿い湿い…
日づけ変わっちゃったので、分割です。

明るいガラス張りに木張りの床の新庄の駅は隣接して二階建てのモールになっていて喫茶店だのピザ屋だの、上には映画館も入っています。手持ちのわずかの金ですぐに食べられそうなものは見当たりませんでしたし、なによりお祭りのためにすごい人です。だいたい、どこもかしこもオープンスペースになっているためどっちへ行ったらいいかわからない人々が右往左往していて、透りにくいったらありゃしません。何も収穫がないままにほうほうの体で駅構内に戻り、特急のホームに店開きしているスタンドでサンドイッチを買ってきます。微妙にぼったくった価格設定が「盆とお祭りが同時にやってきた」感じを醸し出しています。売り子のおばちゃんも慣れていないようで、そこに時間を気にする客たちが群がるので隣のビールのスタンドのおじちゃんに助っ人される始末でした。

喧騒の固まりみたいな銀色のししゃもが発車するとすぐにこちらもドアが閉まります。ここは冬に一度乗ったきりなので、鳴子付近での山なみが夏にはどんな風景になるか楽しみなのです。この路線のキハ110は窓が遮光ガラスであるかわりにカーテンがなく、まぶしいといって南側の窓を閉められてしまう気遣いもありません。後ろの方で子連れのおっさんが何やらさわいでいます。聞いているとどうやらアルコールが入っているらしく、真室川行に乗るつもりがこちらに乗ってしまったようでした。「なぁ、4番線から発車、って言ったよなぁ?」するとそばにいたらしい(多分無関係な)おばちゃんが答えて「5番線て言ってましたよぅ?」と返事が聞こえてきます。おっさんは「何だよ、間違えちゃったよぅ」と次の南新庄で降りていきました。この駅は奥羽本線とまだ平行している所にあり、隣を広軌の線路が並行しているのですがそちらには当然ホームもありません。ローカル線の分岐点にはよくある光景です。あたりは新庄の街もとうに外れた段々田んぼの中、折り返しの列車はあと2時間後で、乗客たちはあ、降りちゃうのという顔をしていました。平行する道路に山形交通のバス停があったのでおっさんが気づいてくれることを祈るのみなのです。さっき新庄の駅には通行止めの迂回案内の掲示が出ていました。あの様子では市内は大渋滞でしょう。バスと汽車とどっちが早く戻れるのでしょうか。

昨日の越美北線をか細いローカル線、とするならこちらは山深いローカル線ということになります。夏の東北の山々は好きな風景で、どこもかしこも緑色の中にぽつん、ぽつんととんとん葺きの屋根が固まっています。頭上を覆うように真昼の青空が続き、穂が出はじめて少し黄色に近づいた田んぼ、まだまだ緑の山々、そして白っぽく光る無人駅のホームに飛んでくるとんぼ。CTC化されて交換設備が廃止された駅に設けられたパイプの柵はまだ風景に馴染んでいるように見えません。築堤の上にホームだけがある東長沢、谷間を埋めるように温泉街が広がり、古い四階立ての木造旅館も見える瀬見温泉、狭い谷を抜けると最上地区の盆地に入ります。最上川流域でもないのにこういう地名なのですが、庄内から陸羽西線沿いに溯って新庄盆地で南に折れなければそのままこちらにくるのだ、と考えることもできます。集落の裏口のような大堀でおばちゃんが乗り、次の最上でさっさと降りてゆきます。本数が少ない(快速を除いて8往復)路線なのに、こういう感じで結構器用に使う人も多いものです。

立小路という由緒のありそうな駅を過ぎると最上の街を抜け、峠を越えにかかります。反対側のボックス(この車両は片側が一人づつの向かい合わせ、反対側が二人がけの向かいあわせです。通勤通学用の際の立席面積を広く取るためにこういう配置になっています)の、親子らしい二人連れはさっきまで外を見ていたのですが、ひざ掛けをして寝てしまいました。いい風景なのですが、さっきから隣の車両のトイレの洗浄剤と思われるにおいがしています。ドアが閉まっていないのかと思い見てみると、どうやら車椅子対応の幅広のドアに結構な隙間があるようでした。昔の車両のように窓が開ければ何の問題もないのでしょうが、この車両は完全空調になっているので何だかくさいのです。ふと、上についているバスなどと同型ののクーラーの吹き出し口に手をやってみると前に乗った人が寒いと思ったのか、閉めてあります。開けてやると涼しい風が吹き出してきて、同時にくさいのもどこかへ拡散していきました。車窓は鳴子の奥の山がゆったりと続き、列車は緑の海の中を行くようです。

駅前に荒れはてた8620が置いてある中山平温泉を過ぎるとトンネルに入ります。ここは鳴子峡に沿った区間で、風致保全のためにトンネルで抜けているものです。一瞬、谷を渡るところで真下に渓谷を見ることができました。トンネル群を過ぎるともう終点です。斜面に張り付くような駅構内には乗継ぎの小牛田行が停まっていました。同じ路線なのだから直通運転にすればよさそうなものなのですが、冬場に遅延した場合に車両運用の都合がつかなくなるために系統を分けてあるもののようです。小牛田行は同じ2両編成でしたが、発車時間が近づくと立ち客も出るほど人が入ってきます。この駅にはなぜか「通過列車にご注意ください」という黄色いプレートがあちこちに貼ってあるのですが、現在はもとより以前にもここを通過する旅客列車があった雰囲気はありません。貨物があった当時の名残なのでしょうか。

前のほうのボックスで温泉帰りの家族連れがはしゃいでいます。子供の方は携帯電話の形のしゃべるおもちゃを弄っていましたが、発車してすぐに「携帯電話は…」という放送が入ると兄らしい方がほら、いけないんだよ、と弟の手からそれを取り上げます。取り上げられた方は不服そうです。親といえばフォローしあぐねて、困っていました。昼下がりの喧騒とともに列車は東北の山々を後にし、しだいに車窓の山なみも低くなってゆきます。振りかえれば線路がその懐へ続く中に、次第に高さを増す青い木々のうねりが午後の光の中にゆっくりと佇んでいるのでした。

…あー、何でこんな長くなっちゃうんだろう(笑)。
2002年9月7日(土) 天気:雨の日のおどりこはとことん眠い
つくばセンタービルの前に山村の風景が広がっていて、そこに廃止になった筑波鉄道のオレンジと朱色の奴がとことことやってきて主要交通機関になっているという夢を見ました。誰か現実にしてください(ぉ
2002年9月8日(日) 天気:あめ
 洗濯でけへん…。んもぅ、馬鹿ぁ…。
2002年9月9日(月) 天気:くもりっぽい
 「漢汁」(旭松)、自分で作った豚汁の方が自分にとってはおいしい。カレー味という噂(/.J)を聞いていた割には、確かにレトルトの袋の中の油分はコリアンダー色をしていましたが、食後感は言われてみればカレーの味「も」口に残っている程度。あれほど存在感の強いものはそうないと思うのに、もしかして味噌ってカレーより強い食品?

 おや、404ですねえ。しかしながら「お気に入りに追加」するとちゃんと 16x16 のDaemon君のアイコンが表示されるのです。
びー・えす・でぃー日誌、IEで見れない。binaryのダウンロードになっちゃいます。text/html 返してくれてないのかな。どっかのキャッシュが壊れてるかしらん
2002年9月11日(水) 天気:はれ
 フォローありがとうございます。某バイト先の favicon.ico、それなりにアクセスあるな〜。<LINK>に入れておくことにしよう。

 …おや、私fabicon.icoって書いてますね…。恥ずかしい…
2002年9月15日(日) 天気:肌寒いくもり
 「イリヤの空、UFOの夏」2巻まで読了。Web日記で伊里野って文字列を見るたびに自分の名字に見えて困ってたんですが。

 超速弾き用手首に埋め込むアタッチメントなんてのをつい想像してしまうわけです。あとはヴァイオリンを100秒でヴィオラに変えられるスキルとかなんとか。

 あぁぁ、そのへんの話は発泡酒500ml三本開けながら書いた奴なんで、半分強さっぴいて受け止めてください…。多分あんまり脳味噌が回ってないと思うのでAC、って奴です<何かに汚染されてます

 飲むとちょっと過呼吸ぎみになるんです。そこで同時に喋ると息を使うんで、すぐ頭痛くなるんですよ。飲み会の席ってやかましいし聴覚も落ちるから声帯も酷使するし、喉まで痛くなるんで(たまに声が出なくなったりする)大勢で飲む時はだからあんまり、喋りませんけど、ほんとうは酒が入ると私はかなり饒舌です。喋るのがきついだけ。指ならアルコール分と関係なく回るんで、ircでやかましいときは飲んでる可能性があります>私
2002年9月18日(水) 天気:はれ
 人権が国際政治のかけひきに使われてきたしこれからもそうであろうことは世界的に周知の事実だし、誰もそれを批判こそすれ止めることはできない。ここで人権を保障しているのが国家である以上、「返せ」「補償しろ」の応酬から国益というパラメータをさっ引くことは本質的に不可能だ。恐らく(これまで25年間政府から等閑に付されてきた)遺族/被害者家族がいくらそれを最優先に、と懇願したところで、国交正常化交渉の中で日本人拉致問題が他の諸問題解決のための駒に、つまり結局何らかの形で両国の国益のためのいいネタにされてしまうことは避けられないだろう(そうせずに済ませるというのであれば、それはよほどの交渉上手か脳天気だ)。日朝関係にはじまったことではない。「南京大虐殺」への謝罪と補償は殺された人(何人か知らんが)に還元されるわけではない。謝れば死人が生き返るわけではないから。「植民地支配」に対する補償だって同じだ。それまで大韓帝国人であったある人が30数年間大日本帝国人として過ごさせられたことを、現日本国政府はいったいどう補償すればいいのか。結局のところは両国の現政府現政権が出てきて「金よこせゴルァ」「そう言わんと、ちょうまからんかね」という話に帰着する他ないのだし、そうなるともう当事者ははなからそっちのけで、少しでも多くぶんどった/安くあげた人間が評価され、今回なら拉致問題/植民地問題は両K君の名を上げるのに貢献してしまい、つまり過去の悪事の清算金のはしくれがご両人の懐に収まってしまったりすることにもなる。そういう疎外が悪いというなら、国家というあり方そのものがまず悪だろう。さて、我々がここで目標としなければならなかったことは国家が悪であると弾劾することだったか。
2002年9月20日(金) 天気:暑くさわやかなはれ
 FormMail.cgi 利用のSPAMアタックがわさっときました>某所。や、404で跳ね返したわけなんですけど、一緒にnamazu.cgiとかも触られてるし。こわやこわや。

 以前はdefault.idaとかいうテキストファイルを作って「馬鹿が見るぅ」とか書いといたこともあったんですが、こう種類が増えてくるといちいち茶化すのも面倒だし下手すると却って危険かもしれないし。いや何が危険になるかは思いつきませんが、脈ありと見られて結果的にDDoSになったりとかはあるかなあ。SetEnvIfかけてがしがし蹴っちゃう手もありなんですが、リファラ落としちゃうUAって実際問題どれくらいあるんだろう。
2002年9月25日(水) 天気:ほどよく寒くなってきた
それまで子供向けSFなどを読んでいたにもかかわらずそれが嫌いになったのは中学で読書会などというものがあって「冷たい方程式」を無理くり読まされたからです。中高一貫のうちの学校は寮があって、主に遠方の生徒、割合にして約半分が寮に起居する生徒、残り半分を占める通学生は年に一回学年ごとのローテーションで「短期入寮」(以下「短入」と略す)という、空き部屋に入居して共同生活を行うイヴェントがありました。寮の各フロアには「ハウスマスター」と呼ばれる先生の一家が生徒とすべての生活を共にしており新婚の先生などは夜な夜な壁に生徒が鈴なり、というのはどうでもいいとして、予め仕上げた読書感想文をそれぞれ担当の先生に目を通していただき、ある日の晩、夕食が終わってからその先生のところに行ってお茶をすすりながら本についてまったりと語り合う、という見かけは優雅なイヴェントだったのです。それでどうなったかというと、私は渡されたコピーを読んでゆくうちにあまりの内容にいらいらむかむかしてきて、感想文を提出しなかったのです。あろうことか私の読書会の担当の先生は校長先生でした。短入が始まり、毎晩のように勉強時間中に国語担当の先生がやってきて早く書け、今すぐ出せ、と言われ続けたにもかかわらず私はそれを拒否しました。それっくらい嫌だったのです。生憎と私はそれまで「周囲に適当に流されて穏便にことを済ませる」ということがまるで出来ない人間であり、それは地元中学に進まず中高一貫のその学校に行った理由の一つでもあったために、何で作者がまるで密航者の女の子をSF的想像力の力の限りにただ殺したいという以外の何ものでもないようにしか読めない文章に対して感想文というものを書かなければならないのかまるで理解できなかったのです。国語の先生はついに匙を投げ、読書会の間じゅう私は激怒した校長先生が他の、ちゃんと感想文を提出した同級生と和やかな読書会をくり広げる脇で立たされたまま、壁によっかかって眺めている羽目になりました。それでも最後には校長先生は、今の君の同級生の持った感想を色々聞いて、何か思うことはないか、と聞いてくれたので、私はやっと、何とか穏便なことを言ってそれ以上意地を張るのを止めたのです。不本意ながらも。ええ、嫌なものは嫌だったんです。今でも嫌です。ここでこうしてトム・ゴドウィンの、聞くところによると作者の唯一知られた作品であるところの大駄作のことをこうして書く気になったのも、ずっと後になってとり・みきの「SF大将」を読んだからです。いえ「くさい方程式」じゃなくて。あのパロディは私がずっと「冷たい方程式」に対して抱いていたブラックホールのように真っ黒な悪意を爆笑のもとに吹き飛ばすに十分でした。実際、今これを書いていても内容を思い返すだに当時の立腹を思い出して連鎖的に腹が立って仕方がないので、もし私に一冊だけ焚書を行う権利が与えられたとすればその対象が「冷たい方程式」であるということは今も変わりありません。そういえば密航者の女の子をどうせ最後だからとそのままヤっちゃったら膣痙攣起こして以下略、というエロパロをどっかで読んだんだがあれはブックマークしてなかったよな。

あの時の読書会の題材がかりに「猫の地球儀」だったら今ごろ部屋がハヤカワで埋まってたのは確実なのに、と思うと残念でなりません。こらそこで時代考察するんじゃない。いやね。2種類あるわけだよ。読んで元気が出るのと、そうでないのと。私はだいたいの場合、元気が出るほうが好きなんです。そして、もしあなたが中学校の先生だったら、読書会の題材としてどちらを選ぶべきでしょうか。
2002年9月27日(金) 天気:寒めのくもり
 今日乗ったパープルバスはウィンカーの音が変わっていました。トラックみたい。

 よーしパパtidy作っちゃうぞ〜と落としてきたんですが付属の Makefile は BSD な make だと駄目ですか兄チャマ。ちなみに GNU make と Solaris8 の付属の make では通りました。手作業でコンパイルの刑です。おー、できたけどISO-2022-jpが通りませんねえ。EUC に変換して流したら今度は1バイトづつ千切って該当コードの文字実体参照に変換(&yen;&not;&yen;&sup1;…みたいに)してくれます。これはこれでおもろいかも〜。

 追記:ちゃんとオプションがありますた。tidy -iso2022 (infile)です。
2002年9月29日(日) 天気:あめ
水戸あたりでは「肉うどん」の中に入ってるのはかしわだということが判明した土曜日だったのです。少なくとも茨大生協ではそうだった。

肉系のものが載っているうどんというとどうしても「いわき」の豚生セットを思い出します。「いわき」は筑波大学の文化系芸術系サークルにとっては一時期はなくてはならないうどん/そば屋で、関西圏の人があそこのうどんはつゆが黒いからうどんじゃないやいなどと言うのをああ、関西文化圏というイデオロギーに毒されたかわいそうな人なのねというまなざしで眺めてあげたものです(私は関東風、関西風どっちも大好きです)。豚生セット(とんしょうせっと、と読みます)というのは豚生うどんにごはんとサラダと生卵がついているものでした。で、豚生セットというのはいちおうは「豚の生姜焼き」が載ったうどん、のことでした。実態はほんのりカレーのかおりが残る豚肉スライスと、すり下ろした生姜、大根おろしがうどんの上に載っているもので、うどんと豚肉と生姜という、体を温めるにはもってこいの食材のオンパレードはつくばの寒い冬にとってなくてはならないものだったのです。おやじさんがいい加減歳になってしまい、2000年10月頭にいわきは閉店してしまいましたが、あの味はまだ鮮明に覚えています。たまに再現できるかもなどとガスコンロ相手に無謀な挑戦を試みたりするのですが、似たようなものは完成するもののあの微妙な味付けにはまだ及びません。

誰か作ってくれないかなぁ>いわきエミュレート率95%以上、というかんじの豚生うどん
2002年9月30日(月) 天気:あめ
 山田君、前線みんな持ってっちゃってください。あとそこの台風も邪魔なんでついでにごみ箱にdrug&dropしといて。

 関鉄のラッピングバスが最近増えてきましたが、ターミナルに停まってるのを見て気づいたんですがあれって「片側だけ」のもあるんですねえ。ドアがついてる方とそうでない方で値段が違ったりするのかしら。カラフルなバスが増えて楽しいです。

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Akiary v.0.42


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