門天でブラームスの二番の一二楽章その他の本番です。
演奏は毎年どおりということで楽しかったので、今日は室内楽を演るときにこうしたいなと思ってることをちょっと書きます。何かというと、立って弾きたいんです。
数十分にわたって緊密なアンサンブルを繰り広げなければならない弦楽四重奏およびその派生形式(もっと人数の多い弦楽アンサンブルとかピアノ五重奏とかなんとか)において、ある奏者が定位置に存在するということは重要です。棒なしで、各パートが技術百パーセント音楽性レッドゾーンな音符 しか存在しない譜面を組み立ててある、本来この世には存在しないはずの音楽世界を創りあげる、その目的のためには音楽以外のどんな些事であれ、挟雑物として取り除かれなければならない。セコバイが小さなアイコンタクトしようとチェロを見たらたまたま楽器の角度のせいで左手のヴィブラートのかけ始めが見づらかった、といった理由だけで数小節後のユニゾンの和音の響きに致命的な影響が出て、その和音は実際にその楽章全体の印象に絶対的な影響を及ぼしている、カルテットとはそういう、とんでもない世界です。そして、誰か評論家が書いてましたが、壊れたカルテットは壊れ物でしかありません。なので、椅子に座って大人しく弾くことには非常な合理性があります。リスクを負ってでも、座って弾くことによって得られるアンサンブルの安定性は捨てがたい。古今東西、カルテットという緊密で制約された演奏形態で音楽を書こうなんて思う作曲家はいつだってカルテットに一刀入魂していますから、演奏者は作曲者が求める至高の音楽に邁進する義務があります。
それでも、私は立って弾きたいんです。だって、ヴァイオリンとヴィオラは、立って弾くための楽器です。立って弾くのがさすがに難しいチェロを原点にして残り三人が自由に立ち位置を決め、原点を中心にして奔放に弾くチェロに共鳴して合計四人が、弦楽四重奏という基本にして至高の音響形態にふさわしい音楽を繰り広げる、そういうことをしてみたいんです。その方が、もっと音楽できると思うんです。
もちろん、このためには奏者全員の頭の中にスコアが頭に入っていなければなりません。次に何がどの音程でどう来る、みたいな細かいことが、各奏者のうちに、まるで作曲者が乗り移ったかのように把握できている必要があります。そしてそうだとすれば、譜面台なんていう挟雑物は不要ですね。音楽(フーガの技法とか大フーガとかシューベルトの十五番とかヤナーチェクの二番とかなんとかかんとか)にあわせて、その場その場で誰がどんな場所にいるかなんてのはその場の音楽の流れに従って決まるはずです。そんなことが可能であれば、それは大人しく椅子に縛り付けられているよりもっと音楽的であり、作曲者の意図に沿ったものとなるはずです。何時間も立って暗譜で弾くのは今日の弦楽器の技術レベルにとってはきついことですが、そんな常識は甘いだけだった、という時代がきたらいいな。
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